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2015.11.25 10:49
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優しさの鍛え方

昔のブログです・・・


正月に初詣に行ってきました。元々信仰心がない方なのか初詣はここ10年以上行ってなかったのですが、今年はふと気が向いて初めて伏見稲荷に行ってきました。伏見稲荷には有名な「千本鳥居」があります。

伏見稲荷大社の鳥居はお稲荷さんなので赤いのですが、凄くたくさんあります。普通「鳥居をくぐる」と言えば歩いていてほんの一瞬の出来事です。でもこれだけたくさんの鳥居が並んでいるとそれは一瞬ではなく、「連続してくぐる」のです。「鳥居」は聖なる領域と俗なる領域を分けている「結界」と言われていることもあって、過去でも未来でもない『神域』につながっているトンネルを進むような感じがします。そうして黙々とくぐっていると全然信仰心がない私でも何故か神妙な心持になってきます。こんな時、やっぱり日本人なんやと思ってしまいます。

さて、その「千本鳥居」ですが千本とは名ばかりで千本どころではなく、全部合わせると約1万基あるとか。鳥居の連続がそのままお参りする道順になっていてそれが結構な距離なのです。そんなに高くないとは思いますがやはり山なので登り下りがあります。息があがって苦しいとまではいかないながら着ていた上着を脱ぐくらいにはなります。

黙々と歩きます。結構しんどいです。誰に行けと言われたのではないし、途中で止めてももちろんかまいません。でも誰も歩くのを止めません。最初のうちは鳥居が奉納された年を見たりしていましたがそのうち真っ直ぐに前を向いて黙々と歩きます。ただただ歩きます。永遠に続くかと思える鳥居をどんどんくぐっていきます。あたりは人が歩く音しか聞こえません。

歩きながら私はこんなことを考えました。
別に強制されてないのに自ら歩こうと思って歩く・・・歩いているとしんどい・・・でも止めない・・・目的は何なのか・・・今止めてもかまわない・・・でも最後まで歩こうと思う・・・何を考えるのか・・・いや何も考えない・・・

そして何も考えなくなってきたとき、こんなことを感じました。
これだけ歩くと「身体」はしんどくなる・・・「身体」と「精神」は「心」を棲家にしている・・・その「身体」がしんどくなるくらい歩く・・・いつ止めてもいいことを止めない・・・ずんずん歩いているとしんどくなった分「身体」の領域は少し大きくなる・・・そうするとその窮屈さに余裕を持てるように「精神」も少し大きくなる・・・そしたらいつの間にか「心」が少し広くなっている・・・そんな感じがしました。

上手く説明できませんが、「自分本位な部分が少なくなるような感じ」がしたというのが一番正確な気がします。自分の中の自分本位な部分が少なくなるということは、簡単に言えば「少し優しくなる」ということです。

考えてみれば世の中のあらゆる修行は全てこういった繰り返すことに通じているように思います。私がやっている少林寺拳法の修行も名前のついた技の数は多いけれども基本となる身体の使い方は割りと少なく、それを繰り返し練習するのです。いつ止めてもいい・・・しんどい・・・でも止めない。きっと茶道などでも同じだと思うのです。何千回何万回と同じ所作を繰り返す・・・繰り返していくうちに無駄がなくなる・・・その先にあるものは『自分に甘えない』ことなのではないかと思いました。
無駄があるうちは、自分に甘えられる領域があるのではないでしょうか。

『自分に甘えない』ということは自分に厳しくできた分だけ『自分の心が大きくなる』ということで、それは結局『優しくなる』ということにつながると思うのです。
ですから少林寺拳法でも茶道でも歩くのでも手段は何でもよく、自分に甘えないで『心』を大きくしていくこと自体が人としての『優しさ』を鍛えることになるのではないでしょうか。
真に強い人は優しい人です。人として優しい人は、「心」と「身体」のバランスがとれています。そして「心」と「身体」のバランスがとれている人は人として『健康』なのです。

心と身体が真に健康な人は必ず「優しい」のです。
『優しさの鍛え方』・・・それは一見難しいようで実は身のまわりにたくさんあると思うようになりました。今よりも「優しい」人になっていく・・・それは人として大変価値のあることだと思うのです。

気まぐれに思い立った初詣・・・無心にくぐり続けた鳥居のトンネル・・・深い意味もなく歩いていただけなのにこんなことを感じたのはやはり『結界』を越えたからなのでしょうか。


2014年1月6日(月) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.11.25 10:48
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単調な作業の果てに

昔のブログです・・・


船のエンジンルームの点検の話です。乗船実習で当直に入るとエンジンルームのあらゆる機器の状態を点検していきます。計測器による点検項目は主に「温度」と「圧力」と「量」ですがそれ以外にも確認していくものがあります。

それは「音」と「かすかな熱さ」と「匂い」です。これらは計測器で計ることができないのですが、機器の異常を発見する重要な指標になるのです。
船のエンジンルームは大きな工場のようで、5階建て(大きな船ではもっとあります)くらいあって、通路や階段、梯子でつながっています。
当直ではそれぞれ主な担当があるのですが、基本的には全ての機器を確認します。その方法はエンジンルームの全てを巡回できるルートを自分で決めて、巡回の間に遭遇する機器の状態を次々に確認していくのです。配管や機器をさっと触って熱さを感じる、タービンなら音を聴く、匂いを嗅ぐ・・・それらを巡回する間に次々と確認していきます。

ここで大切なことは、毎日毎日繰り返される当直の度に同じルートでいつも同じように触れて、聴いて、匂いを感じていくことです。それは実に単調な作業です。異常はそんなに頻繁には起きないので、最初のうちは「こんなこと毎日毎日やったって意味ないやん」と思ってしまいます。実際ほとんど毎回何も変わらないのです。ちょっとくらいサボっても分からないと思ってしまいます。

でも実はそうではないのです。毎日毎日、毎回同じところを巡回して触れて、聴いて、匂いを感じていると「正常な状態」というのを肌で感じるようになるのです。そうです、「いつもと同じ」感じがしているなら機器は正常なのです。
そしてある日の当直でいつものように巡回していて、ふと「あれっ、いつもとちょっと違う」と感じることがあります。場合によれば計測器ではいつもと変わらないのに、肌で違いを感じる時があります。
ほんのちょっとやけど熱い気がする・・・ほとんど分からないけど何かちょっと音が違う感じがする・・・かすかに焦げたような匂いがする・・・そういう感じがする時があるのです。そういう時に異常が隠れているのです。

例えばほんのちょっと熱い感じがする・・・それは何故なのか・・・それを考えるのです。日本から南下していて赤道に近づいている、そうしたら海水温度が上がってくるから冷却効果は弱くなって熱くなる・・・というように理由がはっきりわかることもあります。もう少し掘り下げて考えたら、海水温度が上がったとしてもこれくらいの上がりようなら冷却する仕組みがそれに追随するはず・・・それなら何故熱くなったのか・・・冷却用の配管に何か詰まっているかも知れない・・・そんな風に、いつも行っているから違いを感じて考えられるのです。でも毎回実に単調なのです。見えないものを肌で感じて点検する、それがマリンエンジニアの基本だと私は思います。

船の機器と人間の身体は違いますが、整体の世界も同じようなところがあると思います。
見えない世界を肌で感じていく・・・首に触れて、「特におかしくはないけど、何かちょっと違和感を感じる」・・・そういう感じが実は大切なものを見落とさないことにつながることも多いと思います。

目で確認できる身体の変位は分かり易いです。でも自律神経の不調による「ちょっと変な感じ」は凄く微妙なものも含まれています。ですから施術において、日々指先の感覚を磨くことが大切なのです。可能な限り力を入れない・・・すなわち指先の感覚を「ゼロ」に向かうこと・・・それには地道で単調なことを繰り返すことが大切なのだと思います。

「身体」の不調の影響はほんの少しでも「心」に影響する・・・「心」の苦しさはほんの少しでも「身体」に影響する・・・単調な作業の果てにしかミクロの宇宙は見えないのかも知れませんね。


2014年1月4日(土) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.11.19 11:02
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1トンの鉄を動かせますか?

昔のブログです・・・


机の上に1キログラムの鉄の塊があります。これを動かして下さいと言われたら小学生以上だったらまず押して動かせますよね。ではその10倍の10キログラムならどうでしょうか。大人の男性ならグッと力を入れて押したら動くと思います。では100倍の100キログラムならどうでしょうか。これは相当力のある人がかなり頑張ってようやく動くかどうかだと思います。
そしてさらに1000倍の1000キログラムならどうでしょうか。要するに1トンですね。1トンの鉄の塊が机に乗るかと心配なので床にあるとします。世の中は広いので世界中を探せばそれを動かす人はいるかも知れませんが、普通に考えたら全く動かせないと思います。

では今度は逆に、1キログラムの10分の1の100グラムならどうでしょう。動かせるに決まっていますね。もちろん100分の1の10グラムも、1000分の1の1グラムも動かせます。

それでは今度は、机の上に紙と鉛筆と定規があります。
それを使って1ミリの線を引いてみる・・・何とか書けますね。ではその10倍の1センチの線はどうでしょうか。もちろん書けますね。100倍の10センチも、1000倍の1メートルも書けますね。もっとも1メートルとなると紙も定規もちょっとしんどいですが。。。

では今度は、1ミリの10分の1ならどうでしょうか。0.1ミリです、これはちょっと難しくなりますが鉛筆の先を尖らせてなら何とか書けますね。では100分の1の0.01ミリはどうですか。米粒に字を書いたり、毛髪に字を書く人もいますから出来ないとは言いませんが、顕微鏡もなしにでは通常は無理ですね。そうしたら当然1000分の1の0.001ミリは書けませんよね。

「物を動かす」という観点で考えたとき、重さのオーダーが大きくなると難しくなります。しかし、「線を書く」という観点で考えたときは逆に長さのオーダーが小さくなると難しくなるのです。
何が言いたいのかと言いますと、人は普通「大きくなるほど難しい」と感じるように『大きくなる方向』に気がいっているのではないでしょうか。北海道の大地は大きいし、太平洋は果てしなく広い・・・という目で見える感覚からでしょうか、「大きいほど」「重いほど」・・・と『大きくなる方向』で物事を考えるのが多いように思えるのです。
でも、1キログラムと1トンは「1000倍」の差です。1ミリと0.001ミリも同じ「1000倍」の差」です。要するに無限の宇宙の果てに到達できないのと同じように、『ゼロ』にも無限のキョリがあると言いたいのです。

施術をしていていつも思います。1センチ以上でないと感じることができない指先より、1ミリで感じられる指の感覚の方が繊細だと。それで1ミリを感じられると自慢していると、0.1ミリを感じられる人がいて、その人は『10倍』繊細な感度をもっている・・・0.01ミリならさらに『10倍』・・・
この『10倍』の差・・・言い替えれば繊細さのオーダーをもし3ランク下げることができたら、重さで言えば誰もが動かせないと思っている1トンのものを動かせるというのと同じだと私は思うのです。
見た目では、「1トンの物を動かす人」は凄いと感じます。でも「0.001ミリの線を書ける人」はイメージ的には凄いとは感じにくいけれど、その凄さは同じなのだと思います。

私がやっている整体の「中立位の整体」や「頭蓋仙骨療法」では可能な限り力を入れないことを要諦にしています。『可能な限り力を入れない』ということは『可能な限り繊細な感度をもつ』のと同じことなのです。
今できる自分の感知能力を「その10分の1」にすること・・・それができたらまた「その10分の1」にする・・・永遠に到達しない『ゼロ』を目指して。
世の中には10000分の1ミリ以下でも感じ取れる人はいるはずです。物理的な意味合いが違うので本当は比べようがありませんが、その人の感度の価値は、「10トン」の鉄の塊をスッと押せるほど凄いと私は思うのです。

ゼロに向かう・・・それは宇宙の果てに行くのと同じです。
そして私は宇宙の果てに行ってみたいのです。
年の初めなのに小さなこと?・・・いや年の初めなので大きなことを言ってみました(笑)。


2014年1月2日(木) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.11.19 11:01
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「掛け算」から「足し算」へ (後編)

昔のブログです・・・


昨日は、バレーボールのプレーも人間の身体の健康維持も『不確実性の掛け算』になっては上手くいかないという話をしました。「掛け算」ではなく「足し算」の世界に入らないといけないとも言いました。

今日は、その「足し算」の話です。またまた私の勝手な命名ですが、『不確実性の掛け算』に対して『普遍性の足し算』と言っています。これも言葉の厳密な意味はあまり追及しないでイメージでとらえて下さい。

さて、今日は武道を例に挙げます。私がやっている少林寺拳法も武道の側面をもっていますが武道にはたくさんの種類があります。ここでは少林寺拳法や合気道、相撲、柔道など身体の接触があって相手を制したり投げ飛ばしたりをイメージして下さい。例えば胸倉をつかんできた相手を瞬時に投げ飛ばす・・・そんなイメージです。

相手が胸倉を力強くつかんできました。未熟な武道家はそれに対抗しようと、両足を踏ん張って膝も腰も、手も腕も肩も、身体中の筋肉全てに精一杯の力を漲らせて踏ん張ります。そしてその状態でさらに力を込めて投げ飛ばそうとします。しかしこれでは上手く投げられませんよね。そうです、これはもう完全に『不確実性の掛け算』になっていますね。こんなときの「支点」は自分の身体の中になっています。いわゆる「居着く」という状態です。本来の「支点」は「相手の身体の中」か、悪くても「接触点」になければならないと私は考えます。未熟な武道家などと偉そうに言ってすみません。でも武道を始めた最初の頃は誰でもそんな感じだと思います。

では『普遍性の足し算』だったらどうなるのでしょうか。
相手が胸倉を力強くつかんできます。熟達した武道家はつかまれたところの力を感じながら、その力とバランスがとれるように身体の全てが瞬時にしかもしなやかに動き出します。
理想的な状態にもっていけたらバランスがとれた瞬間に相手との関係が「無重力」に近くなっているので、「支点」に対して身体を一つに使って簡単に投げてしまいます。

この時の武道家の身体は、必然性に従って膝を送って脚が最適な運歩を行います。膝は柔らかく、もちろん足首も腰も肩も全てが「支点」と時々刻々変化するそれぞれに対して、しなやかに連動します。但しどんな時にでもそんな理想的に身体を使えるのは極一部の達人だけですが。。。

練習ならいざ知らず実戦ではなかなか理想的にはいきません。何とか膝は柔らかく送ったつもりでも肩が硬くなって体軸が崩れてしまったなどということは相当練習している人でもあるものです。私の経験ですが練習で満点の動きができていても実戦では6割か7割くらいの実力が出たらかなり立派な方だと思います。

バレーボールの時と同じように、身体のそれぞれの部位の動きが完璧に動いたときを 1.0 とします。何とか膝は 0.9 の動きができました。でも足首は 0.4 しかできませんでした。ここでこれを自分本位に解決しようと肩に力が入ってしまったら肩は 0.2 に落ちてしまうかも知れません。身体の部位それぞれが勝手に自分のやり易い力の入れ方をしてしまったら、「弱いバレーボールチーム」と同じことになりますね。そうです、こうなってしまったらもう『不確実性の掛け算』になってしまって、腰だけがいくら頑張って1.0 になったとしても0.9 × 0.4 × 0.2 × 1.0 = 0.072 になってしまいます。全身の力をこんなに入れているのにバラバラに使っているので、本来あるべき「支点」からみたら 0.072 しかないのです。これでは投げられるはずはありません。

『普遍性の足し算』では、これが全く違います。膝が大失敗して 0.4 になったとしても、それを足首が 0.9 までカバーします。足首と膝の状態を感じた肩も0.8 まで、それに応じて腰も0.7まで上手く連動します。それぞれの部位が「支点」に対して一つになってしなやかに連動する・・・そうするとこれは「掛け算」の世界ではなく、「足し算」の世界に入るのです。そうです、チームが一つになってボールに対して全員が連動しているバレーボールのように。
0.4 + 0.9 + 0.8 + 0.7 = 2.8 ・・・足し算なので当然かも知れませんが1.0 を超えてしまいましたね。足首、膝、腰、肩・・・と同時進行出来る部位が沢山あればあるほど足し算の数は増え、その結果「支点」に対して最小限で無駄なく且つ全てが連動して動ける・・・だから「足し算」なのです。武道の本物の達人は私などより身体に対する感覚が遥かに繊細で、同時進行できる身体の部位が桁違いに多いはずです。その結果、足し算の答えは10 とか20になるように思えてなりません。

武道の場合は、「支点」は自分か相手の身体の中なのですが、バレーボールの場合は「支点」は接触の瞬間以外は身体の外にあります。それ故武道は難しいと言え、それ故バレーボールもまた難しいのです。ですからどちらも修練を積んでいく価値があるのです。

二日に渡って『不確実性の掛け算』と『普遍性の足し算』の話をしましたが、人間の身体も『普遍性の足し算』でありたいものですね。
ストレスを受け続けて「心」がしんどくなっても、「身体」が支えてくれる・・・「身体」が辛い状態になっても「心」が明るく引っ張り上げてくれる・・・少し膝を痛めても身体全体がそれをカバーして回復させてくれる・・・そんな状態がいいのです。その為には自律神経という「監督」がバランスよく健全であることがまず大切なのです。

心も身体も武道もスポーツも・・・みんな『普遍性の足し算』であって下さい。
くれぐれも『掛け算』や『引き算』にならないように。。。
では、良いお年を!


2013年12月31日(火) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.11.19 11:00
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「掛け算」から「足し算」へ (前編)

昔のブログです・・・


「掛け算」はみなさんご存じのあの掛け算です。でもここで言いたいのは『不確実性の掛け算』の話です。但し『不確実性の掛け算』というのは私が勝手に命名したものですので、言葉の使い方や厳密な意味では何それ?と思われるかも知れませんが、ここではその辺は勘弁願って、言葉もイメージでとらえて下さい。

『不確実性の掛け算』とは、例えば「弱いバレーボールチーム」をイメージして下さい。バレーボールはレシーブ、トス、アタックと連携してプレーしますよね。ブロックもありますが、ここでは簡単のためにレシーブ、トス、アタックの3つの要素として考えます。

レシーブ、トス、アタックのそれぞれの「上手くでき具合」を0.0~1.0で表したとします。
受けるのを失敗して空振りしたら0.0です。そして完璧にプレー出来たら1.0です。そしてそれらを掛け合わすのです。
例えば、
・全てが完璧にプレー出来たら、1.0 × 1.0 × 1.0 = 1.0 で完璧な攻撃が出来ます。
・レシーブが空振りなら、0.0 × ? × ? = 0.0 でこれは点を取られますね。
・レシーブとトスは完璧、でもアタックで半分失敗したら、1.0 × 1.0 × 0.5 = 0.5 なので相手が上手ければ完全にブロックされたりしますね。
・もしも3つとも半分失敗したら、0.5 × 0.5 × 0.5 = 0.125 でもう攻撃とは言えないでしょう。
もちろんトスが 0.7 しかできなくても、スーパーアタックで 1.5 を打てたら 1.0 を超えられるのです。要するに、全ての掛け算が1.0以上になるほどいい連携プレーができたということです。

「弱いバレーボールチーム」は、チームとしての連携が上手くありません。しかもバレーボールというスポーツは一つのボールに対して身体を使ってプレーしますが、そのボールはパスやトスなどの瞬間以外は自分の身体の外にあります。なので一つのボールに対してチームが有機的に、状況の変化に全てが連動して動けない限り、それぞれの選手のバラバラのプレーに頼るしかないと言えます。

そういう状態が、『不確実性の掛け算』と私は思うのです。バラバラだから「足し算」にならないのです。ちょっと訳の分からないような命名ですが、弱いバレーボールチームを見ていると私はそう思うのです。
しかし強いチームは全く違います。一瞬しか触れないボールであっても全てのプレーヤーがそのボールに対して全体としての予備的な動作やカバーや可能性の限界でプレーをしています。しかもそんなチームなら監督も相当な力量を持っているはずです。

そうするとプレーヤーは全体のために一つになってプレーする、監督はさらに大所からチーム全体を見ていて的確な指導をする・・・これはもう『不確実性の掛け算』ではなく「足し算」の世界に入っているので簡単に点はとられなくて攻撃も鋭いのです。

人間の身体のそれぞれの組織・・・筋肉、内臓、骨、皮膚、靭帯、血管、神経・・・それらはプレーヤーです。監督は「脳」に当たると思います。そしてチームは「心」に相当するように思います。
もしも身体が『不確実性の掛け算』になっていたら、怪我をしても、ストレスを受けても誰もカバーしてくれません。どこかにダメージを受けたらもうそこは0.0 に近くなってしまうのです。それは自律神経という監督がちゃんと仕事をしていないことが大きな原因で、人間の身体で言えば自律神経失調症に陥っているのと同じ状態ですね。

では、自律神経の監督が的確な仕事をしていたら・・・もう分かりますね、身体のそれぞれの部分は身体全体のために、そして身体全体はそれぞれの部分のために連携して健康になろうとするのです。
自律神経のバランスがとれている・・・それはいいプレーヤーといい監督がいる強いチームなのです。強いチームだから「心」はゆったりとするのです。
(後編につづく)


2013年12月30日(月) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.11.10 22:32
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知行合一

昔のブログです・・・


『知行合一』という言葉をご存じでしょうか。「ちこうごういつ」と読んで、中国の明の時代に王陽明がおこした陽明学という学問で、陽明学の根本的な思想の一つです。
その意味は、「知識と行動は一体のものであり、真の知は行動を伴ったものである。」というものです。もっと分かり易く言えば「知っていて行わないのは、知らないことと同じである。」ということです。

自分を振り返ってみて、『知行合一』になっていないことはたくさんあります。普段はそんなことはないと思っていても静かに考えてみると、「そんなこと知ってるよ」「分かってるって」と分かり切ったことを言うなとばかりに、ついそんな言葉を言ってしまうことがあります。でもその後をよく思い出すと結局何も「行動」していないことって結構ありますよね。

頭では分かっている、けれども行動はしない・・・これは頭の中だけで考えて分かったつもりになって、しかもその先までをも頭のなかで勝手に思い描いて「やってないのに、やった気になっている」に過ぎないのかも知れません。こういう私もそんな時がよくありました。いやそれくらいならまだましな方で、ひどい時には「やる前からやらない理由を正当化」するような時も恥ずかしながらあったと思います。しかもそんな時に限って、「俺はなんて洞察力があるのだろう」と全くとんちんかんな自画自賛をしている時が多いのです。

血圧が高かったりした場合、「塩分を控える」、「適度な運動をする」・・・という知識は大抵の方はお持ちだと思います。でもそれを本当に行動するのは結構難しいのです。一時の勢いで行動したとしても三日坊主どころか一日坊主の場合が多いものです。何故そうなってしまうのでしょうか。

それはきっと『本気』になってないからだと思います。今回は本気で運動をしようと思っている・・・でも続かない・・・それは結局本気でなかったということではないでしょうか。『【進化流水】大先輩、慢性胃炎を語る』で書きましたが、私も胃がんが見つかってからようやく本気で治そうとしたのです。その前の慢性胃炎の時には結局は本気で治そうとしていなかったということです。

大事に至る前に本気になれて行動することが大切なのです。「大事に至る前に本気になれる」ということが真の「洞察力」なのだと私は思います。
その上でその行動が的確なものであって、未然に危険を回避できたり、素晴らしい結果を生み出したり、自分の土俵が一回り大きくなったりできたら、本当の意味で『知行合一』を実践できたのだと思うのです。

人に対していい影響を与えることができるということは、誠に意義深く、場合によっては自分が生まれてきた価値にまで及ぶと思います。私が整体を始めたのも微力ながら整体を通して、人にいい影響を与えられるようになっていきたいからです。
そのためには、まず自分自身が「心身共に健康」でないといけません。自分自身の「心」が苦しんでいたり「身体」が悲鳴を上げていたら、とても人に対していい影響を与えるどころではないのです。中には自分を犠牲にしても人のためにやらなければ・・・という人もいますが、私はその考えには反対です。
少林寺拳法の教えの一つにも、『半ばは自己の幸せを、半ばは他人(ひと)の幸せを』というものがあります。自分で自分が頼りにならないなら本当に他人(ひと)を幸せにはできないと思います。だから他人(ひと)も大事であるけれどもそれと同じくらい自分も大事なのです。

まず、自身の心身が健全であること・・・これがやっぱり第一なのです。その為にはできるだけ自分の「心」と「身体」に敏感になって、不調を感じたらそのことをほったらかした場合の行く末を「洞察」して、必要な「行動」をする。その上で人に対していい影響を与えることを実践する。そういうことが大切なのだと思うのです。

『知行合一』・・・わずか四文字の熟語ですが奥は相当深そうですね。


2013年12月29日(日) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.11.10 22:30
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三角定規を探せ

昔のブログです・・・


大学時代の乗船実習での一コマです。航海訓練中の当直の話は『【進化流水】連帯責任』で書きましたが、当直以外でも講義があります。あれは何年のときだったか、どの船でどこの港だったかなどみんな忘れてしまっていますが、ある航海での『三角定規事件』だけは忘れません。

それはある日の講義で、確かエンジンのエネルギーを計測する方法で紙に記録された曲線で囲まれた面積を計る(間違っているかも知れません、船乗りの方と元教官・・・すみません)というものです。その面積を簡易的に計るために三角定規を使うのです。
三角定規をどう使って面積を計測するのかはさて置いて、真面目に勉強している者は、当然2つの三角定規を持ってきています。しかし周りを見渡しても私の仲のいい友達は誰も持ってきていません。

それで教官がこう言います。『お前ら、マリンエンジニアの端くれになろうとしてるんなら、もちろん三角定規は持ってきてるやろうな!下船試験に出すからな!持ってへんかったら承知せんぞ!』と、かなり怒っています。三角定規ぐらいでそんなに怒らなくてもと思うかも知れませんが、このセリフの前にはこんな経緯があったのです。

教官は『三角定規はみんな持ってるよな』と普通にただ確認されました。そして教室の中を移動しながらみんなの筆箱をそれとはなしに見ていて、ふとA君のところで目が釘付けになります。A君は三角定規を持っているには持っていたのですが、その三角定規は「ディズニー」か「キティちゃんみたいなもの」かは忘れましたが、そんな感じの絵のついたピンク色の物だったのです。ピンクの三角定規がいけないのではありませんが、JIS規格でないのは一目瞭然です。それで教官は頭にきたのです。

とにかく、「これはえらいこっちゃ」と次の日に入港した港で、直ぐにみんなで「三角定規」を探します。文房具屋という文房具屋、寂れたスーパーとかに行くのですが、なかなか見当たらず、あったとしてもあのピンク色のだったり、すでに誰かが買って売り切れてたり・・・店の人も驚いていました、「また、三角定規ですか・・・」と。
で、散々苦労してようやくJIS規格の三角定規を手にいれて事なきを得ましたという話です。

この「三角定規」のように普段は全く必要ないと思っているものでも、ある状況下では絶対に必要になってしまうものがあります。
人が生きていく上で「空気」や「水」などはなければたちどころに生命維持ができなくなってしまうので、あまり意識はしていないにしても必要なのは誰もが認識しています。では「自己治癒力」はどうでしょうか。普段、貯金されている「自己治癒力」は色んなところで身体を修復してくれています。でもそれが当たり前に働いているので全く気にもかけません。私たちもいつもは三角定規を当たり前に持っているのです。でもあの乗船実習では持ってきていなかったのです。

「自己治癒力」もその貯金があるのが当たり前に思っていると、思いもよらないときに枯渇している場合があります。しかもそんな時に限って、「自己治癒力」に精一杯助けてもらわないといけないことが多いのです。

マリンエンジニアはいつでも「三角定規」を持っていましょう。
楽しいはずの人生を不愉快なものにする自律神経失調症などにならないために、人が生きていく上ではいつでも「自己治癒力」の貯金がなくならないようにしていくのが大切です。


2013年12月28日(土) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.11.10 22:28
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君の肝臓に乾杯

昔のブログです・・・


一昨日、大学の同級生と忘年会をしました。原子動力学科は元々40人と人数の少ないことと、急に決めたことから6人だけでしたが本当に楽しかったです。今回は機関科の同期、W君も参加してくれました。W君は同期なのに後輩(?)です。何故なら私が二浪している間に追いつかれたのです。でもそんなこと今となっては誤差の範囲です。寮生活も乗船実習もいつも一緒に行動していたからでしょうか、一味違う仲間なのです。こういうのが「同じ釜の飯を食った」というのでしょうね。

中には何十年ぶりに会う友人もおり、みんな60才近くになっているんで傍から見たら完全に「おっさん」か「ちょっとじじい」に見えたと思いますが、気持ちはみんな若いままでした。驚くのはみんな会社の「偉いさん」になっていることです。常務とか社長とか・・・およそ学生時代には想像できないことですがとにかく、みんな「偉い」のです。

冗談ではなく「偉いさん」は「偉い」が故に仕事はかなりしんどいはずです。口では何もしていないとか言っていますが、何もしていなくて役員になどなれませんよね。私は元々出世するタイプではなく、また実際その通り会社では全然出世からは程遠かったのですが、こうやって「偉いさん」になった仲間の顔を見ていると、『人には言えない苦労を我慢して頑張ってきたんやろうな』と感慨深く思いました。

今では年賀状のやり取りだけになってしまっていたI君も久しぶりの参加です。太っています、それもかなり。。。
身長は私より低いのに、多分100㎏は優に超えています。首回りといいお腹周りといい、常務取締役の貫録十二分です。昔からですが当然のように今でも毎日呑んでいるということです。そらそうでしょう、言われなくても一目見たら分かります。

そんなI君はきっと「不健康のチャンピオンやろう」と思っていたら、「肝臓の数値」などもほんの少し高いだけなんだそうです。これには驚きました。みんなにも「肝臓の力で常務になったんや」と言われていました。まあそれは冗談として、私はI君の強い肝臓に関心しました。

人にはそれぞれ強いところと弱いところがあります。お酒に強い人はアルコールの代謝によって生じたアセトアルデヒドを酢酸に分解する能力が高いのです。要するに肝臓が強いのです。I君の場合は人並み以上に強いということです。

強烈な「肝臓の力」を感じていたら、改めてこんなことを思いました。
自分の「身体」の中でどこが強くて、どこが弱いのか・・・そして自分の「心」の中で何が強くて、何が弱いのか・・・そういったことが分かっているということが大切なことなのだと。
但し、結構難しいとは思います。胃腸が強くて自信があるという人が胃腸の大病をしたりすることもあるのです。逆に胃腸が弱い人は常日頃から気をつけるので大病しないことも多いのではないでしょうか。

そこで私はさらにこんなことを思いました。
「自分で強いと思っていることが本当に強いのか」、また「昔から強いことが今でも強いのか」・・・
誰でもいつまでも自分は強くあって欲しいのです。しかし年月とともに身体は変化していきます。自分の身体の状態を感じるためには敏感な身体でないといけません。精神的なストレスや疲労、悪いエネルギーから一時逃れするための『にぶさのベール』を何十枚も被っていたなら本当の自分の身体の状態は分かりません。ましてや自分の『心』の中の弱いところなんて積極的に見たいとは思わないでしょう。

だからたまには気の合った仲間と会って楽しいひと時を過ごす・・・大好きなものを食べる・・・好きな本を読む・・・要するに『脳が喜ぶ』ことをするのが大切なのです。脳が喜ぶと『心』と『身体』をニュートラルにしてくれます。そうすると自律神経のバランスがとれてくるので自分の弱いところを見る勇気を持たせてくれるのではないでしょうか。

それにしてもI君の「肝臓」には今更ながら敬意を表したいので乾杯!
でもI君、もしこれを読んでくれていたら一言だけ言いたい・・・ちょっとは運動しろ!


2013年12月27日(金) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.11.04 11:45
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急に走るとこけます

昔のブログです・・・


冬はマラソンの季節です。42.195キロ・・・長いですね。私はそんな長い距離を走ったことはありません。10キロくらいまでなら経験はありますが、マラソンとなると全然違うんでしょうね。

スポーツには色んな種類があって、独断と偏見を許してもらって私はこんな印象を持っています。
ラグビーは大体、強いとされているチームが勝ちます。サッカーも基本的にはそうなのでしょうが、なかなか点が入らない性質からか引き分けも多く必ずしも強いとされるところが勝つとは限りません。バレーボールは勿論強いところは強いのですが、リズムとか乗りなどで思いもよらぬチームが勝つ場合もあります。ハンマー投げとか重量挙げなどの重いものを使うスポーツは、瞬間的な集中力が勝負なのでしょう。短距離走もスタートでは瞬発力がいりますが、スタートしてしまったらもう体中の筋肉を目一杯使って走り抜くイメージがあります。

そして『マラソン』です。マラソンは「酸素供給」が早く上手く確立できた人が勝つ・・・マラソンを観ていていつもそんな風なことを感じます。
脚力や心肺能力、走りの技術などに差があるのは当然だとは思いますが、基本的には国を代表するレベルの人はみんなトップレベルのものを持っていると思います。しかし、そのレースで脚の筋肉に「酸素供給」が上手くできなかったら本来の力は発揮できないでしょう。

「酸素供給」するのは、もちろん『血液』ですよね。筋肉が要求する血液の供給がスムースに行われて、疲労物質が上手く処理される・・・そのメカニズムが早く上手くいくことがマラソンのレースでは一番難しいのではないでしょうか。
そのために苦しい練習をして、筋肉も心肺機能もぎりぎりまで能力を上げていると思います。でもそんな有力選手が全然思うように走れなかったり、30キロまでは調子が良かったのに急にペースが落ちたり、ひどいときは途中で棄権せざるを得ないようになる場合があります。42.195キロとはそれほどに苛酷なのでしょう。

人が普通に生活している分には、マラソンをしているような筋肉の使い方はしていないので、「酸素供給」を確立していくことに対して、普段は神経質にはなりませんよね。
でも、普通に生活しているときでも、もちろん筋肉も脳も、内臓など全ての組織、それは細胞に至るまで全部が活動しています。ということは必ず「酸素供給」が上手くできないといけないのです。要するに「血液」や「リンパ」がちゃんと流れていることが大切なのです。

そこでもう一歩踏み込んで考えてみると、「普段の生活」というのはマラソンよりもずっとずっと長い、そう何十年にも渡る生涯のものです。そうするとやっぱり普段の「酸素供給のメカニズム」は「普段の生活」で必要としている分、当然マラソンほど苛酷でないとしても上手く働いていないといい調子は保てないと思うのです。
そのためには自律神経のバランスがとれているということが大切で、それは交感神経と副交感神経がそれぞれ的確に働くことを意味します。そしてそれが基本となって正常な「血流」が確保されるのです。自律神経失調症と言われる不定愁訴は、その名の通り自律神経のバランスが乱れることから始まります。普段の生活ではスポーツのように鍛えるという概念はないと思いますが、「心」と「身体」の足並みがそろっていることには気を配りたいものです。

「マラソン」から「酸素供給」を思い浮かべたとき、私はもう一つ、もう忘れたいのに思い出してしまう出来事があります。それは40歳くらいのときに出た地域の運動会のリレーでのこと。断トツで走っていたのに途中で脚に必要な「酸素供給」が突然パッタリ途絶えて、子供の目の前で見るも無残に思い切りこけたことです。それはもう急にタックルをされたようだったのです・・・家族は今でもそのことを笑います。。。

急に走るとこけます・・・昔取ったキネヅカ・・・運動会ではどうぞ気を付けて!


2013年12月26日(木) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.11.04 11:43
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サーモスタット

昔のブログです・・・


もし、エアコンのサーモスタットが壊れていたらどうなるでしょうか。
夏の暑い日にはエアコンをつけますよね。凄く暑いのでリモコンを24℃に設定します。でもいつまでたっても部屋は涼しくなりません。エアコン自体は壊れていないのに全く涼しくなりません。そう、サーモスタットが壊れていたのです。リモコンの表示では『24℃』になっているのに、サーモスタットは『30℃』で切れてしまいます。これでは涼しくなるはずはありませんよね。
でもこのエアコンの場合は、サーモスタットが実際の温度より6℃高く認識してしまっているだけだったので、リモコンを『20℃』に設定したら、どうやら『26℃』で何とか涼しくしてくれそうです。

しかし、もしこのサーモスタットの故障のようなことが人間の身体で起こったらどうでしょうか。エアコンよりはかなり複雑だと思いますが、私は、自律神経のバランスが乱れるということはエアコンのサーモスタットが壊れているのと基本的なところは同じなのではないかと思っています。

さて、ここからは例によって私の仮説ですが、『冷え性』のメカニズムは大よそこんな様子になっているのではないでしょうか。
冷え性で悩んでいるAさんの実際の体温を36℃とします。でもストレスをいっぱい受けていたので自律神経のバランスが乱れています。なので自律神経の中枢である「視床下部」が認識している体温は39℃だったとします。

夏の暑い日、気温は40℃近くもあったとします。かなり暑いのでエアコンをつけます。エアコンをつけたおかげで部屋の中は28℃になって快適になりました・・・普通はそうなりますね。自律神経のバランスがとれていたら、視床下部も実際の体温である36℃と認識しているはずです。それで室温が28℃になったら体温より8℃も下がるので涼しくなるのです。

しかし、Aさんの視床下部は39℃と認識しているので室温が8℃下がっても28℃と思わないで31℃と感じている・・・だからまだまだ暑いので視床下部は汗を出す指令を出してもっと体温を下げようとします。そうすると実際の体温は36℃を切ってしまいそうになって『冷え性』の症状が出てくるのではないでしょうか。

体温調節を例にあげましたがこれはあくまで私が思っている仮説ですので、実際の生理的な機序は間違いがあるのかも知れません。しかし、冷え性の人の多くは手足が冷えて辛いはずなのに汗かきだったりします。そう、寒いのか暑いのかよく分からない状態になっているように思うのです。この「寒いのか暑いのか分からない状態」というのが、「アクセルとブレーキを同時に踏んでいる状態」、即ち自律神経のバランスがとれていない典型的な状態と同じように私には思えるのです。

常日頃からストレスを感じたり、身体がしんどかったりしたらしっかりと休養をとって自律神経のバランスがとれている状態を維持したいものです。自律神経のバランスがとれているということは、「視床下部」のメンテナンスを常に行っているということだと思います。

サーモスタットが壊れたら、壊れた部品を交換すれば直ります。でも視床下部がバランスを失ってしまったら「視床下部を一つ下さい。」とはいきません。視床下部は交感不可能なのです。ですから出来るだけ自分の「心」と「身体」の声に敏感になって、貯金してある「自己治癒力」で視床下部のメンテナンスを早い目にしていくのが大切です。そして整体というものはこの「自己治癒力」の貯金を増やしていくことに他ならないのです。

2013年12月25日(水) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
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