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2015.12.16 10:52
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ジャンヌ・ダルク

昔のブログです・・・


ジャンヌ・ダルクといっても15世紀フランス王国の軍人で国民的ヒロインの話ではありません。卓球界のジャンヌ・ダルクと言われているプロ卓球選手の四元奈生美さんの話です。
この人は、卓球の地味なイメージを何とか変えたいとかなりカラフルで派手なユニフォームを着て試合に臨むのです。自分のユニフォームをデザインすることもあるそうです。およそ今までの卓球選手のイメージとはかけ離れた奇抜なユニフォームの時もあります。

私は四元奈生美という卓球選手を特に好きでも嫌いでもありません。しかしこの人は今までの常識を破ったユニフォームを着て試合に出ます・・・私はそこが凄く偉いと思うのです。考えてみれば「ユニフォーム」というのはチーム全員が同じものを着るという意味が本来のものだと思います。その意味から個人戦の場合は四元さんが自由なユニフォームを着るのは問題ないと思いますが、ダブルスの場合はどうしているのでしょうか。そういう細かいことや四元さんの選手としての実力は私にはよく分かりません。
もちろん賛否両論あることでしょう。しかし、とにかくその心意気というか度胸というか、自分がいいと思ったことをやり抜く気持ちが私は大好きです。

考えてみてください。いくら自分の着たいものを着るのだと思っても、もしそんな奇抜なユニフォームを着て試合でいつも負けていたら周りからどう言われるか・・・本当はユニフォームのデザインと試合とは関係がないのにきっといいようには言われないと思います。四元さんももちろんそんなことは分かり切っているはずです。その上で自分の主張を通して堂々と試合をする・・・これはかなり凄いことだと思います。

「自分が本当にいいと思ったことはした方がいい」・・・ほとんどの人はこの考えに賛成されると思います。しかし本当にそれを『実行できる』人はどれくらいいるでしょうか。「【進化流水】知行合一」で書きましたが、知っているだけで行動を伴わないのは何の意味もない・・・いいと思っていても実行できないなら何も分かっていないのと同じ・・・誠に耳の痛いことです。

私は四元さんのユニフォームを見るといつも思います。
自分が本当にいいと思ったことを実行する・・・しかもそれを堂々とできる・・・それは『脳が喜ぶ』ことになるのではないかと。
脳は小手先のテクニックでは決して誤魔化されないように思います。他人は騙せても自分自身は騙せません。ですから「本物の気持ちを持ってそれを身体で実行する」・・・このことが脳を喜ばすように思うのです。

『脳が喜ぶ』から四元さんの「心」と「身体」はバランスがとれていると思います。それは試合の結果いかんに関らずそれができること自体が生き方として素晴らしく、見習いたいと私は思うのです。


2014年1月28日(火) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.16 10:51
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自分を信じぬく力

昔のブログです・・・


少し前、テレビ番組のプロフェッショナル仕事の流儀で「最強の棋士 井山裕太」という 囲碁棋士の話がありました。ご覧になった方も多いと思います。
若干24歳で囲碁6冠を制覇するという日本を代表する凄腕の棋士なのですが、その風貌や顔つきは凄く優しいのです。但し勝負をしているときの目は未来を見通すような鋭さを感じました。

番組では子供の頃から囲碁の才能があったこと、確か12歳でプロ棋士になって同年代では敵がいなかったこと・・・しかし中国のライバルには勝てなかったことなどを紹介していきます。でも私が印象に残ったのは次の言葉です。

『負けたことよりも最後に自分を信じ切ることができなかった悔しさ』
これは凄い言葉です。「自分を信じ切る」こと・・・それは私が整体でも少林寺拳法でも目指している「絶対に出来る」「出来ないと全く思っていない」という境地につながるものと思います。
「自分を信じ切る」ということは信じようとするのではありません。信じられる自分がいるということです。そして「信じられる自分」になるためには信じるに値する成功実績がいります。

私は少林寺拳法で指導するとき、よく「上手くいったときの感じを身体にすり込め」と言います。そして「上手くいかなかったときは全て忘れろ」とも言います。
「身体にすり込む」ということは本当に難しいのですが、可能な限り身体を一つに使うこと、例題の練習ではない実戦では全てが理想的にはいかない、だから身体の全体と身体の全ての部分が互いに一つのことに向かって協力する・・・そんな身体感覚を持てるようにすることが必要だと私は思っています。ですから「上手くいったときの感じ」を大切にして「身体全てにすり込む」ことが重要なのです。そしてそのことが「信じられる自分」を作っていくことにつながると思うのです。
少林寺拳法自体が「自分を頼りに生きていける」ようにすることを修行の主な目的にしているのです。自分を頼りに出来ない人は本当の意味では他人(ヒト)には手を差し伸べられないのです。

そしてそのことは整体ではさらに重要な気がします。
「心」と「身体」の不調に辛い思いをしてマイナスの世界にいる人をプラスの世界まで誘導する・・・いや誘導というより共に歩む。
その工程を考えたとき、自分で自分を信じられないなら共に歩むことなんて出来ないと思うのです。例え技術が今の2倍上手くなったとしても「自分を信じていない」ならそれは「心」がないのと同じように思います。整体に関する知識も技術も常に向上していかないといけません。しかしその途上であってもその時々のレベルで「自分を信じている」ことが大変重要だと思うのです。

その囲碁棋士は最後にこう言います。
『目指すのはどんな状況でも自分を信じぬく揺るぎない境地』・・・24歳でこの言葉・・・世の中には凄い人がいるものです。


2014年1月24日(金) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.16 10:49
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何も期待しない

昔のブログです・・・


ちょっと前にテレビであるピアニストの映画を放送していました。題名も俳優も忘れましたが、その映画ではある天才的な才能をもった人がクラシックピアノの指導を受けている時に先生から言われるとても印象に残った言葉があります。
それはもの凄く難しい楽曲なのですが、「手が自動的に動くくらい譜面を完全に覚えること」、そしてその後、「その譜面を完全に忘れること」を要求されるのです。正確なセリフは忘れましたがとにかくそのような意味のことを指導されます。
その結果どうなるか・・・それはその段階までいって初めて演奏に「自分の表現が出せる」と言うのです。
手が自動的に動くように完全に譜面を覚え込むだけでも常人では出来ません。その上、それをまた完全に忘れる・・・いったいどうやってできるのでしょうか。

でも私は少林寺拳法の技で同じようなことを思ったことがあります。
例えば手首を握られたときにそれを逆に投げる技があるとします。それを練習するのですが最初は一生懸命に手順を覚えようとします。今から思えば大して意味がないようなこと・・・この時右足を少し前に出す・・・というようなことまでとにかく手順を覚えようとします。しかし、手順をいくら正確に覚えても練習させるつもりで相手をしてくれている人なら掛かるときもありますが、そうでない人につかまれた時はまず絶対といっていいほど掛かりません。
それでさらに練習をするのですが、やっているうちにいらない力が抜けたり、身体を一つに使うコツをつかんだりして技の本質に少し迫ってきます。要するに最初に教えてもらうのは「方程式を解く公式」なのです。その公式を覚えると、やがて方程式を解くことはできますがそれは例題だけです。実戦は例題ではありません。ですからこの段階ではまだ自由に技を掛けられないのです。

この段階になってくると、もう手順とかは完全に身体が覚えています。
さて、問題はここからです。徐々に合理的に身体を使うことが分かってきて、手順を気にしないで、それよりも重心の移動や足の裏の感覚、膝の柔らかさなどを感じながら身体全体で協力して技を掛けるようになります。ここまでいけばかなりいいのですが、実はここからがさらに難しいのです。拳法のことはすこし端折りますが、最終的には「技を掛けた時に絶対掛かると思っていること」、さらに「技が掛からないという感じを全くもっていないこと」・・・そしてついには「技を掛けようとも思っていない」状態になれたとき、相当なレベルで技は掛けられるのです。

このことが「手が自動的に演奏できるくらい譜面を完全に覚えた後、譜面を完全に忘れる。そうすると自分の本当の表現ができる。」ということにつながるように私は思いました。

そして整体の施術においても多分同じことが言えると思えて仕方がありません。
何とか良くなって欲しいと思うのは当たり前なのですが、基本的には「自己治癒力」の力で回復していく訳で、施術を受ける方の力で良くなるということ・・・そうするとその方の「身体システム」にどれだけ任せられるかということになる・・・そう考えると施術の技術はもちろん必要ではあるけれども私が「治そう」とか「治したい」とかも考えない・・・『何も期待しない、何も考えない』中で施術するのが一番いいように思うのです。

手は感じたものに自動的に対応する・・・しかし何も期待しない・・・その中で必要と感じたことをする・・・簡単に書きましたが真にこれが出来るのは本当に難しいのです。
しかし難しいからそれを目指す価値があるのです。そのためには基礎的な技術レベルはもちろん上げていかないといけませんが、自分自身の「心」がゆったりとしていることが必須条件です。

音楽も少林寺拳法も整体も表現が違うだけで、人知を越えたレベルへの道は同じように思います。今からピアニストにはなれないのは確実ですが、施術そのものが自分の表現としての音楽を奏でるようになれたなら最高ですね。


2014年1月22日(水) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.10 12:19
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筋金入りの侍逝く

昔のブログです・・・


フィリピン西部のルバング島で終戦を信じず、約30年間戦い続けた小野田寛郎さんが16日に逝去されました。74年に帰国後ブラジルで牧場を開設、84年にはジャングル生活で得た技術を子供たちに伝える「小野田自然塾」も主催されていました。本当にお疲れ様でした。小野田さんの訃報を聞いて直ぐに思いを巡らせたのは「陸軍中野学校」のことです。小野田さんは陸軍中野学校を卒業した情報将校だったのです。

かなり昔になりますが「陸軍中野学校」という映画がありました。情報戦に対応できる人材を育成するために超優秀な者が集められたということです。いわゆるスパイの養成学校ですね。プロフェールでちょっと書いているように私が小さい時に007に憧れたのとは違って、中野学校のは本物です。

詳細は忘れましたがその映画で印象的なシーンがありました。それは市川雷蔵が主役で口頭試験のような場面でした。
2階か3階か、とにかく木の階段を上がったところに部屋があって教官が机の前に座っています。市川雷蔵は階段を上がって机の前に行きます。「ただ今、まいりました」というようなことを言ったと思います。そのすぐ後に教官は机の上を大きな地図のようなもので覆ってしまいます。そして矢継早に質問をするのです。
「今、登ってきた階段は何段あったか?」、「○○段です。」
「机の上に何があったか?」、「タバコ、万年筆、マッチ・・・」
「マッチ箱からマッチは何本出ていたか?」、「○○本です。」・・・
というような質問が続くのです。そして間髪入れずにことごとく正解を答えるのです。

超優秀というのは身体の優秀さだけではないのです。学問的な頭の優秀さももちろん必要ですがそれだけではなく、集中力、注意力、臨機応変の柔軟性、正確な判断力、未来を描く洞察力・・・そういったもの全てを兼ね備えている者だけが入学を許されるのです。そしてさらにそこから知識と能力をどんどん磨いていくのです。

私はまだ若い時にテレビでこの映画を観たのですがこのシーンが凄いと思いました。『能力』というのはこういうものなのか、こんなに凄い奴がいるのかと強烈に思いました。
同時にそんな人が「筋金入り」というのだと思いました。そして小野田寛郎さんは本物の「筋金入り」です。

時代背景も人間としての性格も、能力も全く違います。ですから私はいくら望んでも小野田さんレベルの筋金入りにはなれそうもありません。でも憧れます。『筋金入り』という言葉の響きにも痺れます。そこから私が連想するのは「強靭」「精神」「忍耐」「鋭敏」「柔軟」「根性」「謙虚」「繊細」「大胆」「静寂」「優しさ」「寡黙」。

当たり前ですが小野田さんには足元にも及びません。でも一歩でも近づきたいと思っています。もちろんスパイの世界ではありません。私が目指したいのは整体の世界です。「心」と「身体」のバランスの世界です。
さて私は死ぬまでに先ほど挙げた12個の連想のうち、いくつを実現できるでしょうか・・・
今日は小野田寛郎という筋金入りの侍を偲んで書きました。


2014年1月20日(月) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.10 12:18
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センサー小僧

昔のブログです・・・


前回駅まで歩いたときの話を書きましたが、書いているうちに駅に関してまた一つ思い出したことがあります。それは駅にあるエスカレーターの話です。

ある日帰宅するために地下鉄に乗っていて、自分が降りる駅で電車を降りました。いつもは降りる場所などはあまり気にしないのに、そのときは6両目の一番左のドアから降りました。そこから降りると目の前にエスカレーターがあるのです。
ご存知と思いますが、エスカレーターはある程度人が乗っていない時間が経過すると止まっています。そしてエスカレーターに乗る人が「センサー」を通過したら自動で動き出します。そのときのエスカレーターは止まっていました。出口はエスカレーターのすぐ前です。しかも私が一番先に降りれそうです。そうすると私が「センサー」を通過してエスカレーターを動かせる・・・実にしょーむないことですがちょっと楽しみにしていました。

予定通りの場所で電車は止まります・・・ドアが開きます・・・一番で降ります・・・
エスカレーターには私が一番で乗れそうです・・・
その時です。全く気がつかなかったのですがエスカレーターの乗り口の向こうに小学生の男の子がいて、正に私が通過しようとする前に飛び出してきてサッと「センサー」を手で横切って、瞬く間に元の位置に引っこんでしまったのです。もちろんエスカレーターはすぐに動き出しました。

「何をするんや、このくそガキは!」・・・いや失礼、「何をするんや、この子は!」と心の中で思いましたがもうどうしようもありません。どうしようもないも何も、もともと何の意味もないこと・・・でもちょっと楽しみにしてたのにと。。。

それでエスカレーターで上まで上がってから、みんなが降りるまで待って下を見ました。そしたらその子はまだ下にいて、次に動かす機会を待っているようなのです。
「ははあ、この子はセンサー小僧やな」と思いました。「センサー小僧」には勝てるはずはありません。

人は楽しみなことがあったら「心」が明るくなります。めちゃくちゃ小さくて他愛ないことですがエスカレーターを動かすのは楽しみではありました。ですから電車から降りるときや、エスカレーターに乗ろうとするときまでは「身体」が少し軽かったのです。
でも「センサー小僧」にまんまとしてやられて少しがっかりしてエスカレーターを降りたとき、「身体」が少し重くなったように感じたのです。

私は思いました。こんな小さなことで、こんなにもしょーむないことでも「身体」は「心」の影響を受けるのかと。確かに「心」と「身体」は連動している、しかもかなり繊細に。
ですから人に対して「ちょっとくらい嫌なことは気にしない」とか、「それくらいのことは我慢して」とかを気軽に言ってしまわないように気をつけようと思いました。

「センサー小僧」はきっと、身も心も軽いんでしょうね。


2014年1月18日(土) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.10 12:16
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ステロイドおばさん

昔のブログです・・・


もうずいぶん前になりますが、地下鉄に乗るために一人で駅へと歩いていました。駅までは真っ直ぐな道で歩道も幅広くありますので歩きやすいのです。結構早足の私は特に何も考えずに歩いていました。駅まであと500メートル。
何気なく前をみていたら一人のおばさん(と言っても私より年下かも・・・)がだいぶ前を駅に向かって歩いています。割とスタスタと歩いているように思いましたが、私との距離が少しずつですが一定の割合で確実に縮まっているんで私よりは遅い歩みです。
あと20メートルで追いつきます・・・あと10メートル・・・あと5メートル・・・あと1メートル・・・
私は当然追いついてそのまま追い越していくことを疑っていませんでした。

しかし、あと1メートルくらいと認識したくらいから先ほどのペースで縮まってこないのです。それでも少しずつは縮まって、あと50センチ・・・あと30センチ・・・あと10センチ・・・そしてついに並んだと思ってそのままのペースで歩いたのですが、何と並んだまま抜けないのです。

何故なのかは分かりませんが並走しているような形で、おばさんはペースを上げて私の右側を歩いているのです。私はずっと同じペースなのでおばさんには結構しんどいはずなのにずっと並んでいるのです。ちょっと気になっておばさんを見ました。そしたら明らかに私が見たことを意識していながら真っ直ぐ前をむいて歩いています。「うんうん」とは言ってませんがうんうん言って歩いているようです。
私は迷いました。何もそのおばさんを抜かないといけないことなどありません。さらにペースを上げたら簡単に抜けると思います。またペースを下げたらおばさんは前に行ってしまうでしょう。
どうしようか・・・結局同じペースで歩きました。何故ならペースを上げてもついてくるなら何だか気の毒に思うし、ペースを下げてそれに合わされたらちょっと気持ち悪いし。。。

結局、駅に着いてしまって駅へは左に曲がることから、インコーナーの有利さで私が一歩リード。そしたらそのままずるずると差が開いて階段を降りきったころにはずいぶん距離が開いてしまいました。そのときは負けず嫌いな元気なおばさんやなと思っただけでしたが、電車に乗って整体のことを考えているうちにこんなことを思いました。

人はストレスを受けたら副腎皮質ホルモンで修復しようとします。自前のステロイドですね。早いペースで歩いていた私が「ストレス」であのおばさんは「自前のステロイド」としたらどうなるかと。
ストレスが目一杯せまってきたから、ステロイドが頑張って修復する・・・追いついた私を抜かさせないように「ステロイドおばさん」は頑張っていたのではないかと。
そういうことを思っていたら「うんうん」言ってるようでしんどかったやろうなとずいぶん悪いことをしたと思いました。「悪い」のは当然ですね。あの場合の私は「ストレス」なんですから。。。

ずっと頑張ってくれていた「ステロイドおばさん」を振り切って、インコーナーを利用して引き離してしまった「ストレス」・・・きっと人間の身体も何とかぎりぎり修復しようと頑張っていくけれども、ちょっとしたことでストレスが有利に働いてしまったとき、もう追いつかなくなってしまってやがて「心」と「身体」のバランスが崩れて不調が出てきたりする・・・実に他愛のない小さな出来事でしたがそんな風なことを思いました。

もし今度あの時の「ステロイドおばさん」に出会うことがあったら、必ずペースを緩めて決して追い越さないでおこうと思いました。


2014年1月16日(木) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.02 08:38
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ベアリングの宿命

昔のブログです・・・


自転車、ミシン、洗濯機、エアコン、掃除機・・・それらの機械には性能のいいベアリングが使われています。仕組みとして回転するものにはほとんどベアリングが組み込まれていると思います。釣りのリールなどはベアリングの数で値段も違うようです。
性能のいいベアリングは実に滑らかに回転します。ですから回転に対しては滑らかで静かで摩擦抵抗の少ないベアリングがいいのです。

しかしこんな話があるのをご存じでしょうか。
西部劇に出てくるような馬車がありますよね。その馬車には大きな車輪がついています。そして道も今のようにきれいに舗装された道ではなく、石ころがいっぱいあるようなガタガタの道です。タイヤもベアリングもまだ存在しません。ですから車輪は木でできていて周りには鉄の輪で補強されています。軸のところも鉄の軸受けに鉄の軸がはまっています。するとその馬車に乗って走ると、ガタガタガタガタと細かく振動しながら進みますよね。

もしこの車輪の軸受けと軸の部分を性能のいいベアリングに替えたらどうなるでしょうか。さぞ滑らかに走って快適になる・・・と思いませんか?
でも実際はそうはならないのです。性能のいいベアリングは精密機械です。精密機械というのは部品それぞれが精密に組み合わさって性能を出します。ですからガタガタ道で、木と鉄の輪でできた車輪に軸受けだけベアリングを使ったりしたら、軸受け部分の精密さが「ガタガタさ」を全てひらってしまいます。その結果、ガタガタの軸受けの時よりももっと乗り心地は悪くなるというのです。隙間がいっぱいある鉄の軸受けに鉄の軸・・・それがガタガタさを上手く吸収してくれていたのです。


私はこの話を聞いたとき、なるほどと思いました。ベアリングに限らずおよそ精密機械というものは全ての部品が精密に機能しないと本来の性能は出ないのです。
全ての部品が精密に動けばいいのですが、場合によれば一つの小さな部品が動かなかったら機械全てが動かなくなることもあるのです。精密であるが故の宿命なのでしょう。この話を聞いたときは学生時代だったので機械というものの話として聞いていました。しかし今、整体をするようになってこんな風にも考えるようになりました。

人間の身体は信じられないくらい精密です。でもその精密さは精密機械のようなものではないと思うのです。もしも人間の身体が精密機械のような仕組みだったら、足首をちょっと痛めただけでもう歩けないし、足首を完全に治さない限りそれはちゃんと動くことはできないのではないでしょうか。

しかし人間の身体はそんな「ヤワ」ではありません。痛めた足首を膝や股関節や反対の脚など身体の一員がカバーします。可能な範囲ではありますが動きながら、また動くことによって回復していきます。精密であるだけでなくもの凄く柔軟なのです。しかも全体で自然に回復していく機能も組み込まれているのです。この精密さの次元は機械の精密さとはまるで違うのです。

そしてもう一つ・・・人間が機械と決定的に違うもの・・・それは「心」があることです。「心」があるから「身体」は安心できるのです。そして「身体」が安心できるから「心」は嬉しいのです。この二つのバランスがとれているから舗装された道では思い切りスピードを上げられるし、ガタガタ道でも快適に走れるのです。

「心」と「身体」・・・人知を越えたこの素晴らしい仕組み・・・どんな精密機械も絶対に及ばない仕組み・・・今日、回転椅子に座ってクルッと廻った時こんなことを思いました。


2014年1月14日(火) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.02 08:37
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美しい静止

昔のブログです・・・


正月気分もだいぶ抜けてきました。抜けてきてから言うのも何ですが、子供の頃の正月の遊びは「凧揚げ」「羽根つき」「スゴロク」「福笑い」、毎年お宮さんで買う「吹き矢」、それに「独楽廻し」・・・
若い方には「何それ?」と言われるようなものもあるかも知れませんが、正月と言えばやっぱり「凧揚げ」が一番正月らしい感じがします。但し、今日は「独楽廻し」の話です。独楽廻しは正月だけでなく年中やっていたからです。

昔の男の子はみんな独楽をいくつも持っていました。しかもその独楽はそれぞれ自分で調整するのです。調整の中心はやはり「芯」を真っ直ぐにしていくことと、芯の先端を細くして摩擦を少なくすることです。芯の先端はコンクリートの地面などで円を描くように砥いでいきます。先端は細いほど廻したときの摩擦は少なくなっていいのですが、一度細くし過ぎた友達がいて、その時の先はもう釘のようにまでしてしまって廻して乗せた掌に穴があいて怪我をしたことがありました。何事も程々が大切ですね。

それで本筋の「芯」を真っ直ぐにする調整ですがこれはとても難しいのです。押さえたり少し叩いたりするのですが、下手に叩き過ぎると二度と真っ直ぐにはできません。ですから慎重に何度も確認しながら少しずつ調整していくのです。そうして調整した独楽をいくつも持っていて友達と勝負するときに状態のいいのを選んで遊ぶのです。

独楽で大切なのは「芯」ですが、それを覆っている「本体」ももちろん大切です。木で出来ている「本体」は焼くのです。焼くといってももちろん完全に焼くのではなく、焦げる手前くらいまで焚火の中に入れて焼くのです。そうすると木のいらない水分がとれて軽くなってよく廻るのです。今は「焚火」なんかを勝手にやることはできないように思いますが、当時はいつもやっていましたので「焼き独楽」もやり易かったのです。もっとも焚火から出すタイミングを間違うとせっかくの独楽は炭になってしまいますが。。。

とにかくそうやって苦労して上手く調整した独楽は本当によく廻るのです。その廻っている姿は完全に「静止」しているように微動だにしません。実に美しいのです。こんなに高速で激しく廻っているのに静止しているように見える独楽を私は好きでした。

私がやっている「頭蓋仙骨療法」では「静止点誘導」といって脳脊髄液の産生・循環によって生まれる潮の満ち引きのようなリズムを非常にソフトに「静止」へと誘導し、その後の自発的な再始動でリズムが強くなるようにしていく施術があります。
人間の身体はじっとしている時、見た目では静止しているように見えますが実際は常に動いています。まず呼吸があります。整体の世界では鼻からする呼吸は二次呼吸と言われていますが、普通に呼吸していると当然胸などは動きます。でもちょっと頑張って呼吸を止めたらこの動きは抑えることができますので今度こそ静止しているように見えますね。
でも本当は脳脊髄液の産生・循環がある限り目では見えないけれどもかすかなリズムで身体は動いているのです。このリズムは一次呼吸と言われていて肺呼吸をするずっと前から死ぬまで続くものなのです。

静止点誘導が上手くできたとき、このリズムがちょっとの時間ですが止まります。もちろんそのときも人間は生きています。数秒~長くても1分くらいのうちに自然にリズムは復活しますが、私はその静止点誘導ができたとき、よく廻る独楽の「静止」を思い浮かべます。生きているのに静止している・・・廻っているのに静止している・・・それは何か「静止している」ということだけでなく、「秩序が保たれている」ような感じを受けるのです。

よく廻る独楽は他の独楽にちょっと当たってもびくともしません。また当たった衝撃が大きいときでもちょっと揺れてもすぐに真っ直ぐに持ち直します。それは独楽の「芯」と「本体」のバランスが取れているからだと思います。秩序が保たれているから復元力も強いのだと思います。

独楽の「芯」と「本体」・・・それは人の「心」と「身体」と同じだと私は思うのです。独楽の『復元力』は人間の『自己治癒力』に相当するのではないでしょうか。
「心」と「身体」のバランスが取れていると「健康」という秩序を保つことができます・・・それはよく廻る独楽のように美しいのです。


2014年1月12日(日) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.02 08:35
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涙もろいは恥ずかしい?

昔のブログです・・・


映画を観ていても本を読んでいても、人の話を聞いていても自分が話をしていても、人に係わるちょっと感動的なことに触れただけで身体がジーンとなって直ぐに涙がでそうになります。ここ2~3年くらい前からでしょうか、どうもかなり涙もろくなってしまったようです。そんな感じになるとそのことで自分に余計に感動してしまって胸が詰まって上手く話せないようになることすらあるのです。そんな時、「何か男らしくないなあ」「恥ずかしいなあ」と思えてちょっと嫌なのですが仕方ありません。

人生経験を積んでいくと色んなことに出会うことから「人の気持ち」がよく分かるようになる、だから年をとったら涙もろくなるという話を聞いたことがあります。
まだそんなに年をとったとは思っていませんが、同年代の人はみんなそうなのでしょうか。今度同窓会があったら聞いてみようと思います。
しかし、少し恥ずかしい気持ちにはなっても「素直に感動できる」ことはいいことだと思うのです。それが「人の気持ちが分かる」ということにもつながっているなら、なおいいことに思えます。

整体の施術でも少林寺拳法の技でも、「ゼロ」に近い変化を感じ取れるように感度を上げていきたい私としては、涙もろくなるのも「ゼロ」に向かう一つの道筋だと喜ぶべきなのかも知れません。「感動」は「心」がバイブレートすることです。バイブレートした「心」はゆるんでいくように感じます。

「身体」も力を抜いてユラユラと揺すっているとだんだんゆるんできます。そういった体操を推奨している運動科学者がいるくらいです。「身体」がゆるんでくると「心」もゆるんで楽になっていくと思います。「身体」を揺らすということは少なくとも自分の意思ですることはできます。上手く力が抜けるとか、続けることができるかということはありますがとにかく揺らそうと思えば揺らすことができます。

でも考えてみてください、自分の意思で「心」を揺らすことができるでしょうか。どこかに力を入れて頑張ってみてもそれはできません。「心」と「身体」は一つでありながら構造や領域が違うのでしょう。自分の「心」がしんどくなってきたときに自分でちょっと揺らして元気にする・・・もしもそんなことが出来たらいいでしょうね。自分で自分を励ますことが出来るということですから。

しかし残念ながら「心」はなかなか思うようになってくれません。
だから「感動」ということを人間は感じることができるようになっているのではないでしょうか。
年をとっていくとストレスも積み重なり、複雑に絡み合ってくる・・・しかも身体は硬くなるし若い時のようには動かない・・・だから年をとってくると「感動」に関する感度が上がって「心」を揺さぶって楽にしてくれる・・・で、涙もろくなる。

きっと若いときも年をとっても人間は本来「心」と「身体」のバランスはとれるようにできているのだと思います。そういった仕組みを含めて『自己治癒力』というのではないでしょうか。

自律神経のバランスが崩れて「心」も「身体」も辛くなって発症してしまう自律神経失調症からなかなか抜け出せないときは『自己治癒力』を底上げしていく整体が有効です。
でも普段から自分で出来る事として、たまたま聞いたいい話、人から受けた優しさ、辛い時に手を差し伸べてくれた人の気持ち、偶然出会った思い遣り・・・どんな小さなことでもどうぞ遠慮なく感動して下さい。ちょっとくらい恥ずかしくても目一杯感動しましょう。感動した分、必ず「心」は優しく励まされているのです。

涙もろい自分・・・万歳!


2014年1月10日(金) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.11.25 10:50
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ガンベルトになったランドセル

昔のブログです・・・


時代はどんどん変わっていきます。でもいつの時代になっても変わらないものの一つに小学生のランドセルがあります。もっとも私が小学生の頃のランドセルは赤と黒の二色しかなかったと思います。色の豊富さに加えて材質や重さ、大きさや背負い易さなんかはずいぶん改良されていると思いますが、基本的なところは変わっていません。

当時の小学生はみんなそうであったように私も6年間ずっとランドセルで通っていました。確か4年生の時だったと思います。ランドセルで「ガンベルト」が作れると思いついたのです。プロフィールにも少し書きましたが、当時のテレビ番組でやっていた西部劇の影響で「ガンマン」に憧れていたからと思います。

肩に引っ掛ける左右の帯状のところをつないでベルトにして、ランドセル本体の革でピストルを入れるところを作って、ベルトに取り付ける・・・設計図を書くとかそんなことはしません。でも頭の中で「ガンベルト」のイメージを持っていました。材料といい大きさといい、革の擦り切れた感じといい申し分ないのです。早く作りたくて仕方がなかったのですが、卒業するまではランドセルを使わないといけないので早く中学生になりたい気持ちとは別に、卒業を楽しみにしていました。

やがて卒業しました。待ってましたとばかりにランドセルを解体して「ガンベルト」を作りだしました。風呂場に閉じこもって作ったのを今でも覚えています。それからハサミで切ったものを縫い付けるのに、革がかなり厚いので母の「ミシン針」を取ってきて何回も指を痛めながら作りました。ミシン針も何本も折りました。風呂場で作ったのは多分、ランドセルを解体することやミシン針を黙って使うことから母に隠れてやろうとしたのかも知れません。

両手が痺れるほど痛かったけれど念願の「ガンベルト」は何とかできました。早速腰に付けて持っていたピストルを入れて母に見せました。母はミシン針のことも怒らないで、「よう作ったね」と笑っていました。私はやっと満足できました。

何かをやろうと思うとき、私はよくこの「ガンベルト」のことを思い出します。「とにかく作りたい」という気持ち・・・それと同時に「絶対出来る」というイメージ・・・その二つがあれば私は大抵のものは出来ると思うのです。
大学入試も二浪もしてしまいましたが、「とにかく入りたい」、「絶対に入れる」と思っていました。でもよく考えてみたら「ガンベルト」も「大学入試」も2年の歳月を要しているのは一体何なのかとは思いますが。。。

整体をやり出したときも同じような感じがしました・・・「とにかくやりたい」・・・同時に「絶対出来る」と。どちらが先とかではありません、同時なのです。
病気を治すというのは「マイナス」を「ゼロ」にすることのように思います。しかし整体というものはそれだけではなく、「マイナス」の状態を「プラス」にもっていくものだと思います。
施術の結果として治ったとしてもそれは「治す」というのではなく「元気」になっていく一過程なのです。それは施術をする私が治すのではなく、施術を受ける方が本来の自分の力で元気になっていくからです。病気が治るから元気になるのではなく、元気になっていくから病気が治る・・・『自己治癒力』とはそういうものではないでしょうか。

そんな『自己治癒力』自身はきっとこう思っていると思います・・・「元気になりたい」・・・同時に「絶対に元気になれる」と。


2014年1月8日(水) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
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