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2016.01.06 12:13
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下手な絵

昔のブログです・・・


動物の絵を描いたときなんかに凄く下手で変になってしまう人っていますよね・・・実は私がそうなんです。「下手で変」っていうのも人によって感覚は違うかも知れませんが、例えば左向きに真っ直ぐ立っている馬を横から描いたとき、私が描くと馬の「顔の輪郭」はもちろん「横顔」なんですが「顔」は「こちらを向いている」みたいになることです。それに前脚と後脚も向う側の脚は当然向う側にあるはずなのに、四本ともこちら側に並んでいたりするのです。以前にテレビでそんな絵を描く芸能人がいてその人の馬の顔には「眉毛」がありました。私はさすがに眉毛までは描きませんが、描いてしまうその気持ちはよく分かります。

探せば身近にそんな絵になってしまう人は結構いるのかも知れませんが、不思議なのは私は小学校1年生から二十歳くらいまでずっと絵を習っていたのにそうなることです。最初は水彩画ですが6年生くらいから油絵になりました。決して上手くはありませんがその時に描いた絵では特に下手ということはありませんでした。でもちょっと紙に動物を描こうとしたとき、絵を習っていた時も今もいつでも変な絵になってしまうのです。何故なんでしょうか。

絵はわりと真面目に習っていました。それどころか大学受験の時期には何と真剣に美大に行こうかと思ったこともあるのです。結局小さいときから思っていた船乗りなるために美大には行きませんでしたが・・・「行きませんでしたが」と言えば聞こえがいいですが総合的な実力として絶対に行けなかったと今では分かります。

今でもよく覚えています。絵を習い出して直ぐのとき、機関車の絵を描きました。凄く重そうで力強い感じの機関車をクレヨンと絵具で画用紙に目一杯描いていると全然収まらなくなったのです。そうしたら私の絵の先生は右側にもう一枚画用紙をセロテープで貼ってくれます。それでまた続けて描いていたら今度は上側が足りません。そうしたら先生はまた上側にも画用紙を足してくれます。そうやって結局四枚の画用紙に思う存分描いたのです。
多分、この絵は今まで私が描いた中で一番いい絵だったと思います。

型にはめない・・・自分の描きたいように描く・・・何色を塗ってもいい・・・きれいに塗ることよりも塗りたい気持ちそのままに塗る・・・足らないなら紙なんかいくらでも足して描けばいい・・・その先生はそんな指導方針でしたので私でも続いたのだと思います。この経験が私には凄くいい影響を与えてくれたと今でも思っています。絶対にこうしろああしろとは言わないその先生には仲人もしてもらいました。

人間には「右脳」と「左脳」があります。左脳は論理的なことを、右脳は感覚的なことを主に受け持っています。私はかなり「右脳人間」ですがそれは絵を習ったことの影響が凄く大きいと思っています。
今、自律神経に関する整体をするようになってよく思います・・・人の身体の「心」も含めた見えないものを相手に施術する・・・そこには感覚に結び付いた想像力が必要です。いや整体だけではありません。ずっとやっている少林寺拳法にしても私の場合は身体感覚は全て「右脳」で処理をしていると思うのです。
「右脳人間」であることは間違いないのですが、よく考えると「左脳」があまりにも働かないことも「右脳」が目立つ理由なのかも知れません。何故なら完全に文系のタイプなのに船乗りになるために理科系に行かざるを得ず、そこでやる数学や物理すら「右脳」でやってきたと思います。だから全然わかっていません。わかってないのにできるのは「左脳」でやってないからなのです。

でも私は「右脳人間」で良かったと思っています。今、自分の情熱をもってやっている整体も少林寺拳法も私には「右脳」の方が上手く取り組めるからです。
動物を描いたとき、なんで下手で変な絵になってしまうのか・・・その辺の秘密は「右脳」にあるのかも知れない・・・そんなことをいつも思っていたのですが、先日施術した方と話をしていてふとこう思ったのです。下手で変な絵になるのは、私の右脳の中であの時の機関車に結び付いているのではないかと・・・説明は難しいのですが何故か明確にそう思ったのです。だから下手でも変でも自分の感性で描いたものはいい絵なのだと・・・今までのいろんなことで培った自分の感覚にもっと自信を持とうと思いました。

動物の絵を上手く描ける人は「何でそんな変な絵になるの?」と言います・・・でも逆にその人に私は言いたい・・・「あなたは一生懸命に下手で変な絵が描けますか?」と。。。


2014年3月10日(月) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2016.01.06 12:12
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冬のトラウマ

昔のブログです・・・


まだまだ寒い冬だと思っていたのですがやはり2月は短いですね。気がついたら3月に入っていて、今日などはそんなに寒くない一日でした。過ぎ去ろうとしている冬に遅れないように今日はあわててこんなことを書いてみようと思いました。

冬は寒いものです。私が住んでいる大阪では寒いと言っても北国の寒さからみたら「春」みたいだといわれそうですが、それでも寒いのです。今でも朝起きようとは思うもののもう少し蒲団の中にいたい気持ちが背中を丸めさせます。しかし昔・・・少なくとも私が小学生の時はずっと寒かったのです。

毎年冬になると「寒い、寒い」と言いながらも昔に比べたら随分暖かい冬になっていると思います。やっぱり地球温暖化は確実に進んでいるのでしょうね。
小学生の頃は大阪市内でもまだ全てが舗装された道ではなく、土の道もたくさんありました。それで当時は排水の性能があまり良くなかったのでしょうか、水溜りがあちらこちらにありました。そうすると寒い冬にはその水溜りは必ず凍って、大きな石を叩きつけないと割れないくらい厚く張ります。当時の小学校は石炭ストーブだったので、割った氷の大きな欠片をストーブに乗せてジュージュー言わせるのが面白かったのです。もちろんストーブに氷を乗せるな!・・・といつも先生から言われていたので見つかったら凄く怒られますが。

ストーブ当番に当たると二人一組でバケツをもって石炭置き場から石炭を運びます。そしてスコップでストーブに入れて火をつけます。今から思うと大きなストーブで火力も強いので危ないものだったのかも知れませんが、暖かいだけでなく何となく冬のストーブは教室の中心になってみんな集まっていました。氷を溶かすのも面白かったのですが、水溜りにはまってぬれた運動靴を友達がストーブの近くに置いて乾かしていたら知らない間に運動靴は思い切りそっくり返ってしまってみんなで大笑いしたこともありました。

今は土の道などまず見当たりませんし、ましてや水溜り自体がありません。朝顔を洗うときの給湯器から出るお湯がなかなか温かくならないことなどで冬の寒さは感じますが、目で冬を感じることは少なくなりました。暖かい冬は暮らしやすいのかも知れませんが「冬らしさ」が無くなってきたとも思うのです。地球温暖化によって南極の氷が溶ける・・・それによって海水面が上がる・・・そうすると気象変動もあって「冬らしさ」などと優雅なことを言っている場合ではないのかも知れません。

寒い冬は人を集めると私は思います。「集める」というのも変な言い方ですが、暑い夏は発散するような感じがし、寒い冬はみんなが「寄り添う」ように思うのです。寒いからあまり動かない・・・ストーブにみんな集まる・・・炬燵にみんなで入る・・・居眠りをしていたら「寒いやろう」と毛布をかけます・・・寒い方が人は優しくなるのではないでしょうか。
きっと「身体」が寒いと「心」がその分暖かくなってバランスをとっているのかも知れませんね。

いまでも冬になると必ず一度は思い出す忘れられないことがあります。
それは小学校の池が凍った凄く寒い日、授業が始まる前に友達と池の氷の上を歩いて渡っていました。一人、二人・・・私は三人目です。みんな池の向こう側まで歩いて戻ってきます。そして四人、五人・・・その時です、バリッと氷が割れて五人目のU君がズボッとはまってしまい池の底に沿って潜っていきます。みんなびっくりしたのですが、結局U君は無事に引き上げられ事なきを得ました。助かった後はU君も含めてみんなめちゃくちゃ笑いました。でもその日U君がそれからどうしたのかはよく覚えていません。ひょっとしたらあのストーブにズボンとかパンツとかを干していたのかも知れませんね。

この事件は全体としては面白い出来事ではあります。しかし中学生になってから何故か面白さの中にほんのちょっと心に引っかかるようになりました。それはU君がはまったことよりも私が渡り終えて上がる直前に氷が少し「ミシッ」と鳴ったように感じたことです。本当に鳴ったのかは分かりません。でも鳴ったように感じたのはよく覚えています。みんな次々に渡っていたので実際は注意する間もなかったのですが、もしその時即座に注意をしていたらU君ははまらなかったのではないかと。。。

半世紀も前の話です・・・もう時効ですよね・・・でもこの場を借りて・・・U君、ごめん!


2014年3月1日(土) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2016.01.06 12:11
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恐怖のラジオ体操

昔のブログです・・・


「ラジオ体操」は誰でも知っていると思います。年をとると正確には覚えてなくてもラジオ体操の曲がかかると大抵思い出して出来るものです。子供からお年寄りまで誰でもできる・・・そのラジオ体操が実に怖いものに感じた話です。

船乗りのなるために入学した神戸商船大学(今は神戸大になっています)では船に関する色んな学問も当然あるのですが、体育の授業がかなり厳しいのです。特に1年生の夏には「遠泳」の実習があって淡路島にある専用施設で1年生全員で合宿するのです。そこでは立ち泳ぎや浮き身などもしますが最終的には「2時間の遠泳」があります。横約5メートル、前後約2メートルの2列縦隊で2時間泳ぐのです。それで1単位・・・でも必須なので取れないと卒業できません。

夏の遠泳合宿に行く前には寮にあるプールで水泳授業があります。歩いていける距離ですが寮は学校から離れていますので、水泳の授業だけは体育の教官が寮に来ます。授業では泳力に応じて帽子が分けられます。まともに泳げるのが白帽、泳げるけれども泳ぎ方が少し悪ければ黄帽、あまり泳げないと赤帽です。白帽はその中でも泳力の優劣で白帽Aと白帽Bに分けられ、さらに白帽Aの中からスピードが速いと黒帽になります。それで黄帽、赤帽になってしまったら夏の遠泳合宿の前に毎朝6時から特訓があるのです。夏とはいえ朝6時は寒いのです。幸い私は白帽Aだったのでこの特訓は受けずにすみました。

そんな大学でしたので体育に対しては結構厳しいのです。
ある日の体育の授業で「今日はラジオ体操をやるぞ!」と教官が言います。誰もが「ラジオ体操?そんなん運動のうちに入らんわ」と思いました。「ラジオ体操第一」・・・こんなの出来ないはずもなく皆そんなに緊張することもなくやり始めます。
そしたら少しした時、教官が「止め!もとい!」と言います。「もとい」というのは最初からやり直しという意味です。で、また最初からやり始めます。そしたらまた直ぐに「もとい!」と言います。「何?」と思いましたが教官曰く「きっちりと腕が上がっていない」とのこと・・・そう、腕を上に上げる時でも腕は極限まで真っ直ぐにして両耳に触れるまで伸ばすことを要求するのです。「始め!」・・・「もとい!」・・・「始め!」・・・「もとい!」・・・

もう誰も「ラジオ体操くらい」と馬鹿にしている余裕はありません。全員で一生懸命腕も伸ばして続けます。しかし一人でもきっちりと出来ていなかったら教官は躊躇なく「止め!もとい!」と言います。そしたらまた最初からやり直しです。しんどいからと自分が少しでもいい加減なことをすると皆に迷惑がかかるのです。だから手を抜けないのです。

本当にきっちりやることを前提とした連帯責任的な「ラジオ体操」は本当に恐ろしいのです。体育の授業は確か1時間半はあったと思います。正確なことはもう忘れてしまいましたが結局、その授業での「ラジオ体操」は「第二」の最後まで出来なかったように思います。
ラジオ体操を侮ることなかれ、それは恐怖の体操になり得るのです。

ラジオ体操に限らず、「質」のレベルを少し上げると途端に難しくなるのです。しんどいから・・・邪魔くさいから・・・ある程度できてくると人は適度なところで楽にこなそうとします。「楽にこなすこと」は別に悪いことではありません。しかし少しでも「質」を上げていくことは大変重要なことなのです。
整体でも少林寺拳法でもついつい「量」をこなして「よくやった」と思いがちです。しかし本当は「質」を上げるための「量」なのであって、そのことによって真に「質」が上がらないのならば本当の価値には結びつかないのだと私は思うのです。

さっき、ちょっと肩が凝ったので気まぐれにやってみた「ラジオ体操」・・・いつの間にか目一杯背筋を伸ばして腕も耳につけてやっています・・・きつい!・・・でも今は怖くはありません(笑)。


2014年2月23日(日) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2016.01.06 12:10
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薬缶の使い道

昔のブログです・・・


先日、ある駅の片隅に大きな薬缶が置いてありました。今はもう普段は目にしませんが昔はよく薬缶というものに接する機会がありました。大きくて金色をしたあの薬缶です。大学の乗船実習でも食堂にはいくつか必ずありました。その時の話です。

薬缶は水を入れてそのまま火にかけることが出来ます。麦茶などを大量に作るときは便利ですね。それで何年のときの実習かは忘れましたがその船にももちろん薬缶が備えられていました。経験した人しか分からないかも知れませんが、乗船実習中はとにかくお腹が減るのです。航海で揺れまくって船酔い真っ最中のときは全く食欲がなくなるのですが、あまり揺れないときや停泊中は凄くお腹が減るのです。でも誤解なきよう、航海訓練所の船ではもちろん3食ちゃんと出してくれますし、夜中の航海当直では夜食も出ます。特に遠洋航海の時は予算が変わるのか結構豪華な食事が出ました。しかしそれでも夜になるとお腹が減るのです。

それでどうするかと言うと、ほとんど例外なくみんなインスタントラーメンを大量に買い込んでいます。時代的には湯を入れるだけで出来るカップラーメンはあったと思いますが、値段が高いのです。それでみんな鍋で煮るタイプのものを買ってくるのです。
今は知りませんが当時の訓練船は自分でラーメンを作るときは電熱器を使います。電熱器と言っても家庭で使うようなのではなく蚊取り線香の何倍も太い渦巻状の大きな電熱でした。とにかくそれでラーメンを作るのですが、作ろうとする人数に比べて圧倒的に鍋が足りません。順番をまっていたら中々食べることが出来ません。そこで私達3人はあのでかい「薬缶」で3人分のラーメンを作ったのです。

無事ラーメンを作って美味しく食べたのですが、食べ終わるころに仕官から薬缶をそんな使い方をしたことについて強烈に叱られました。その仕官の部屋に3人呼び出されて「お前らがそんな使い方するから薬缶が痛むんや」、「常識で考えろ」・・・と凄い剣幕です。
もちろん直立不動で「すみません」と誤るのですが、強烈に叱り続けるのです。やがて「非常識な奴は・・・」・・・多分、「船にはいらん」と言おうとされたと思います。その時です。3人のうちの一人が「鍋がないときに薬缶を代わりに使って目的を達するのはマリンエンジニアとして必要なセンスだと思いました」・・・あろうことか口答えしたのです。
仕官はしばし沈黙した後、前の何倍もの怒鳴り声で叱りつけてきて最後に「薬缶の茶漉しの穴とか隙間にラーメンがほんの少しでも残っててみろ、ただじゃおかんぞ」と。

その後、3人は「ひえー」とばかりに部屋をでて、それこそ薬缶が擦り切れるくらい洗いました。そして3人で絶対にラーメンが残ってないかを入念にチェックして、きれいに拭いて再びその仕官の部屋に薬缶を見せに行きました。
そしたら仕官は薬缶を点検して即座に「よし!」と一言いました。そしてニッと笑って自分が持っているラーメンを3つ手渡しながら「行ってよし!」と言いました。
航海訓練所の仕官ですから我々の大学の先輩です。何と男らしい人やなと思いました。
マリンエンジニアのセンスがどういうものか、本当のところはよく分かりませんが、あの口答えにも一理があると先輩は考えてくれたのだと思います。

ふと見た薬缶からそんなことを思い出したのですが、マリンエンジニアのセンスを出すことも、正しいと思うことを言うことも、怒り心頭にきていても相手の一理を認めることも・・・そして済んだことをぐだぐだ言わずに歯切れよく事件を終わらせることも・・・全て大事なことだと思います。きっとその先輩は「信頼できる自分」というものを根本に持っていると思うのです。「信頼できる自分」を持っているということは自分の言葉と行動に自信をもっていることに加えて相手の気持ちを推しはかることができるということです。

私は整体と少林寺拳法を共に大事にしています。
「信頼できる自分」になるための一つに少林寺拳法があって、そこでは「弟子もまた師なり」とよく言われそのことはいつも実感しています。そして「自分を信頼」できなければ整体は出来ないと思うのです。今回は「薬缶もまた師なり」・・・かも知れませんね。


2014年2月18日(火) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.29 16:08
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置いてきぼりの心

昔のブログです・・・


電車やバスに乗っているときなどで、子供が大きな声で泣いたりあばれたりしているのに出会う時がたまにあります。2ヶ月くらい前でしょうか、電車に乗っていた時にある駅から男の子と女の子の二人を連れたお母さんが乗ってきました。電車の中はぎゅうぎゅう詰めではないけれどそこそこ込んでいました。
すると乗って直ぐに小学校2年生くらいに見える上の子が大きな声で泣き出したのです。ちょっとぐずりながらかなり大きな声で泣くのです。周りの人はその子を見てしまいます。私もそれとはなしに見ているとどうやら椅子に座れないからぐずっているようなのです。

お母さんは「満員だから!」とか「優先座席も空いてない!」、「手すりをちゃんと持って!」、「ちょっかいを出さない!」「いらんことをしない!」・・・そしてまた「満員だから!」「理解しなさい!」「あんたは何でっ!」・・・「それなら勝手にしなさい!」とか、「ちゃんとしなさい!」とかを大きな声で矢継ぎ早に叱りの言葉を連発します。近くにいるとびっくりするくらい大きな声で叱るのです。その頃になるとその子はすでに泣き止んでじっとしていたのですがお母さんはまだ言っています・・・「じっとしなさい!」。やがて近くに座っていた一人のご婦人が見るに見かねたのか席を譲りました。そしたらそのお母さんは「ありがとうございます」と礼は言ってましたが当然のように直ぐに子供を座らせました。

しかし周りにいた人で「良かったね」と思った人はおそらく一人もいなかったと思います。心優しい席を譲られたご婦人はひょっとしたらそう思っていたかも知れませんが、ほとんどの人は「何じゃそれ!」って思ったと思います。最初の一言を聞いた時から不愉快な気持ちになりました。一応にしろ正しいことを言っていたのに何故でしょうか。

このお母さんは確かに一応正しいことは言っていたと思います。正しい指導をしている、厳しく育てている・・・一見そういう風に見えるのですが何故かそれは表面だけのように感じるのです。そうです、「心」がないように思うのです。「心」と「身体」は一体になっているはずなのですが「心」だけが置いてきぼりになっているのです。もちろんここで言う「身体」とは大きな声で叱ったりする具体的な行動のことです。
「心」が置いてきぼりになっているから正しいことを言っているのにそれが本当の愛情をもった指導に聞こえないのです。本当に愛情をもってしかも厳しく育てていたら、子供は泣かないし、泣いたとしてもあれくらいの状況であんな泣き方は絶対にしないと思います。もし少しぐずったとしても優しく諭すと子供はおとなしく我慢すると思います。それに本当に厳しく育てているなら一人で立って歩ける子供に優先座席に座らせることもしないし、あの状況で席を譲ってもらっても決して座らせないと思います。

前回の【進化流水】で「半歩前へ」ということを書きました。物事をするに当たってあれこれ考える前に「心」を「半歩前に」置くことの大切さを書きました。
「置いてきぼりの心」はそれとは正反対で、「心」が後ろに忘れ去られているのです。今回の場合は半歩どころではなく「一歩」くらい後ろに「心」は置いてきぼりにされているのです。あんな叱り方をしてそれをむしろ自慢げにしていたことを考えると「二歩」くらい後ろだったのかも知れません。

「心」と「身体」は一体のものです。ですからそのバランスがとれていることは真の健康にとって非常に重要です。心が置いてきぼりになっているということは「身体」は健康なのかも知れませんが、精神性においては極めて不健康であると思うのです。「健康さ」と「不健康さ」はやがてはどちらか強いほうに引っ張られていくと思います。何故なら「心」と「身体」は一つだからです。
あの時のあのお母さんも「心が置いてきぼり」になっていることに気づいて心身共に健康になって欲しいと願います。愛情をもって厳しくしかし静かに優しく叱っていたなら周りの人もどんなに清々しい思いをしたことでしょう。もっともそういう育て方をしていたら叱ること自体が必要なくなりますが。

電車の中などで子供がガサガサしている時、「じっとしないと前のおっちゃんに怒られるよ!」という叱り方をする人がいます。しかし周りにいる「心」ある人はみんな思っています。

「あんたが叱れよ」と。


2014年2月16日(日) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.29 16:07
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半歩前へ

昔のブログです・・・


半歩前へ!・・・学生時代、整列している時によくこういう号令を受けたことがあります。半歩くらい前に詰めろということなのですが、では何センチかという厳密な距離が決まっている訳ではありません。それに人それぞれ歩幅が違うので正確に自分の半歩だけ前に行けたとしても全員が同じ距離を詰めることにはなりません。こういった時の半歩は「おおよそ半歩くらい」という意味とともに前に詰めながら周囲と前後が合うように「整合せよ」ということですね。「半歩」についてちょっと詳しく書いてしまいましたが、今日お話しするのは実際に前に詰める「半歩」ではなく「心の半歩」の話です。

さて「心の半歩」ですが、何をするにしてもそれをする前に「心を半歩前に出す」ということが凄く重要なことだと私は思うのです。
「心」を半歩前に出すというのは、あれこれ考える前に「心」だけをまず半歩前に出す・・・周りと整合を取りながらも半歩くらい前に置く・・・「身体」はまだ動かない・・・スポーツでも仕事でも困難なことに直面した時も「心」は既に半歩だけ前に出ている状態・・・前に向かおうとしている・・・そんな感じのことです。

「心」の準備をしておくのと少し似ていますが、違うのは「考えない」というところでしょうか、考えないで無条件で前に出すということです。無条件で「心」が半歩前にあるとそれは「これから何かを始める」という段階はすでに過ぎているように感じるのです。
これから何かをするために準備をするというのではなく、「もう始まっている」という状態にある方がいらない力が入らなくて本来の自分の力が出ると思うのです。もう始まっているから「上手くいかなかったらどうしよう」とかを考えることもなくなります。前に向かっているから「上手くいくに決まっている」に近づきます。

では「半歩」でなく「一歩」や「三歩」ならもっと前向きになれるのか・・・前向きの達人なら可能かも知れませんが、私はやはり「半歩」がいいと思います。「半歩」というのは少しなのです。ほんの少しだから手の届く範囲で「心」を前に出せるし、「身体」もついて行き易いのです。一歩以上では「身体」と離れ過ぎていて「身体」が置いてきぼりになる・・・そうするとせっかく前に行っている「心」は後ろに引き戻される・・・そんな感じがするのです。ですからやはり「半歩」がいいのです。
周りと整合を取りながら「身体」がついて行き易く、且つ全てを前に向かわせる「半歩前へ」が私はいいと思うのです。

これはスポーツなど身体の運動を伴う場合だけではありません。困難なことに直面した時、嫌なことでもやらなければならない時などでも同じようにまず「心」を「半歩前に」置くのです。そうすると「身体」の動きに関係がないことでも「心」と一つになるように「身体」も前に向かう・・・実際には動かなくても身体とともに前に向かうイメージを持てると思うのです。
「心」の問題も「身体」を伴った形で行うのが大切なのです。
「心」がどんな形なのかは私も知りません。しかしその「心」のイメージとして丸く柔らかいものを両手で包み込んで実際に半歩くらい前にそっと置く感じ・・・実際に手を動かしても「心の中」だけでイメージしてもどちらでもいいのです。大切なのは形を伴ったイメージで「心」を「半歩前に」置くことなのです。

少林寺拳法の技をしようとする時も整体をしようとする時も、まず「やろうとする心だけ」を「半歩前に」置きます。やろうとする心だけ半歩前に置くというのは言い換えれば「何をやるかを決めない」ということです。「何をどうする」ということを決めてやるのは「心が半歩後ろに」あるのと同じだと思います。何をどうするか分からない・・・しかしやろうとする「心」は半歩前に置く・・・そうするといらないことを考えずに一番合理的なことができると思うのです。もちろんその時の自分の技量によって出来る範囲もレベルも違いますが、少なくとも自分の実力を出し易くなると思うのです。

何も考えずに「心」を「半歩前に」置く・・・その段階でもう始まっているのです・・・考えてもいいけれどその前にとにかく「心」を「半歩前に」置く・・・もし考えることが必要でもそれから考えるのです。そうすると「心」と「身体」は一つになってまずは前に向かいます。心と身体が前に向かっているから自分を信じることが出来るのです。
どんなことにせよ今からやることに対しては今現在の自分が持っている力が全てなのであって、それを信じた上で誰かのために持てる力を尽くせることこそ人が生きている価値だと思うのです。

半歩前へ! 無条件で今の自分を信じるために。


2014年2月14日(金) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.29 16:06
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バリコン

昔のブログです・・・


「バリコン」というものをご存知でしょうか。正式にはバリアブルコンデンサーと言って日本語では可変蓄電器と言います。昔のラジオをご存知の方はすぐに思い浮かぶと思いますが、ラジオのつまみの先に付いていて放送局の周波数に合わせて受信するためのものです。
詳しくはわかりませんが、つまみの先には向かい合った電極があって回すことでその接触面積などが変わり、それに比例して静電容量が変わることで望みの周波数に合うのです。
今はもうほとんどデジタルになってボタン一つで選局できますが、周波数のことをヘルツではなくサイクルといっていた時代の話です。

学生時代はほんとうによくラジオを聞きました。それも深夜放送です。建前では勉強をしていることになっているのですが、いや中にはちゃんと勉強しながら聞いていた人もいると思いますが、とにかくその当時の学生はほとんどの人が深夜放送を聞いていたと思います。

当たり前の話ですがラジオは放送局から流される番組を「聞く」という一方通行のものです。それはそうなのですが当時の深夜放送(ひょっとして今でもあるのかも知れませんが)では葉書で聞きたい局をリクエストしたりするのです。そうすると単にラジオから流れる音楽を「聞く」というのではなく、自分の葉書を読んでくれるのを期待したり、友達の名前がリクエストとともに言われたりするのを楽しみに聞いているのです。
そうすると「あいつ、こんな曲が好きなのか」とか自分のことは棚に上げて「きっとあいつも全然勉強せんとラジオを聞いているに違いない」とか色んなことを想像しながら「聴いている」のです。一方通行のラジオを介して、目で見えなくても気持ちが双方向に働くから面白いのです。

この感覚が私は整体でも似ているように思うのです。
バリコンでラジオの周波数を合わせる・・・それは人体がもっている根源的な3つの周波数に同期をとるべく手で感じていくことと似ているように思えてなりません。
ラジオを介して友達のことを想像しながら聴く・・・それは手を介して施術される方の「身体システム」を想像しながらその「声」を「聴く」のと同じではないでしょうか。そして残念ながらその時によって聴きにくいときやよく聴こえるときがあるのもよく似ているように思うのです。

「身体システムの声」にもデジタルで一発で周波数を合わせられたら便利ではあると思います。しかしながらもしそんなことが出来る時代になったとしても便利になる分、「想像する」ことや「感じる」という感覚は鈍ると思うのです。自分のわからないことなどこの世には無限にあります。その中でも特に人の「心」と「身体」は分かるなどと簡単に言えるものではありません。ですから施術に際してもその方の「身体システム」を感じて、さらに想像しながら『自己治癒力』を底上げできるように少し後押ししていくのです。

不調で辛い思いをしている方の原因と解決方法をデジタルで一発で見つけて回復させていく・・・遠い未来そんな時代がくるのでしょうか・・・いや、きっとこないでしょう。
人は機械ではありません。生きているのが人間です。生きているということは理論通りにはいかないことや辻褄の合わないことがあるということです。ですからそこには生きている「手」で「感じる」、「想像する」ということが絶対に必要なのです。

誰もが寝静まった静かな部屋で、息を潜めて見えない世界を想像しながら深夜放送の小さな音を聴いている・・・そんな風に施術していきたいと思うのです。


2014年2月10日(月) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.23 20:19
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夜会

昔のブログです・・・


少し前にテレビで「オール中島みゆきナイト」という秘蔵映像の番組がありました。どの曲も懐かしく良かったのですが、それ以上に中島みゆきという人は改めて凄いと思いました。
中島みゆきさんの何が凄いかと言ってそれは「感性の鋭さ」とそれを「表現する力の強さ」で、私は突出していると思います。番組でも誰かが言っていましたが、「初めて会う人の一を見れば全てが瞬時にわかってしまう感性」を持っている・・・私もそう思うのです。

2年位前に友達に誘われて『中島みゆき 夜会 2/2』というコンサートでもなく、演劇でもない・・・たしか言葉の実験劇場と言っていたと思います・・・そういうものを観る機会がありました。心象風景もたくさん出てきますので正直よくわからないところもありました。しかしその歌とともに表す『心象』が心にぐっときます。いろんな解釈ができそうな「ベトナムの心象風景」などは正確には何なのかわからないのに心が深く揺さぶられ涙が出ました。

中島みゆきさんが普通のコンサートではなく「夜会」をよく公演されるのは、歌だけでは自分の繊細なイメージを伝えるのが難しいからなのではないでしょうか。もちろん彼女は歌だけでも相当なものがあります。しかし私がここで言いたいのは、「歌という限定」を外して「夜会」というかなり自由な領域を取り込んだとき、自由度は増す代わりにその表現を含むコントロールは数段難しいように思うことです。

中島みゆきさんは「感性」の鋭さとその「表現力」の強さに加えて、人間を静かに、しかし深く見つめて「洞察する力」が人並外れていると思います。すなわち尋常でないレベルの「繊細な感覚」を持っていると思うのです。真似のしようもありませんが彼女がどうやってそういった感覚を身につけることができたのか、もちろん持って生まれたものもあると思いますがそれを磨き続けているように思います。どうやって磨くのか・・・知りたい・・・でもわからない・・・と夜会を観ながら思っているとき、ふと思ったのです・・・きっと中島みゆきさんは「心が滞っていない」のではないかと。
「心に滞りがない」ということは、怖いものなどでもそれに対抗しようとするのではなくある意味「無防備」に、普通は自然に防御してしまうことも無防備に感じるままに感じるのではないかと思いました。そして「滞っていない心」を持っているということは「信じられる自分」・・・いい所も悪い所も含めて自分を信じているということなのだと思うのです。

「心」と「身体」に不調を抱えて辛い思いをしている人に対して、その人の「身体システム」を出来る限り尊重しながら回復への道を共に歩むためには、施術者である私が不必要なことは一切しない「ゼロの世界」を目指すことが重要です。それは単に施術の技術だけでなく心に滞りがない「信じられる自分である」ということが非常に大切なのです。

そういえば3年のときの大学祭に中島みゆきさんがコンサートに来たのに、あの時仲間と生ビールとみたらし団子を売って儲けることに必死になっていたので観ませんでした。そうやって儲けた売上げもみんなで一晩飲んで騒いだら全部なくなりました。。。
若いということはきっとそんなものなのでしょう・・・でもあの時、もし彼女のコンサートを観ていたらもう少し早く大切なことに気がついたかも知れませんね。


2014年2月8日(土) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.23 20:16
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美味しい煮物の作り方

昔のブログです・・・


煮物は冷えていくときに味がつく・・・そんなことを最近知りました。そのメカニズムはよく分かりませんが、食物の細胞の性質と温度変化が関係しているのでしょう。なるほど考えてみれば昨日作ったカレーが今日の方が美味しく感じる時ってありますよね。

人の眠りに関しても似たようなことがあります。ゆっくりお風呂に入って身体の芯まで温まると気持ちいいものです。特に寒い晩などは風呂から上がってホコホコのまま蒲団にもぐって寝たらさぞよく眠れるだろうと思ってしまいます。でも実際は深い眠りはそれでは得られないようです。

深い眠りにするためには、お風呂で温まった身体の「芯が冷えてきたとき」に寝るのが一番いいそうです。身体の表面ではなく「身体の芯」が冷えるには2~3時間かかるようです。
そしたら夜の12時に寝るのならお風呂は9時頃に入るのがいいということになります。医学的なことはさておいて、ここで「冷えてきたとき」というのが「煮物は冷えていくときに味が付く」のと私は生き物としての性質が似ているように思えてなりません。

普通の感覚では熱い風呂に入って直ぐに寝た方がよく眠れるように思ってしまいます。同じように煮物もぐつぐつと煮たっているときに味がよくしみ込んでいるように思ってしまいます。でもそうではなく実はその反対に冷えていく過程がいいというのです。
食物も人間の身体も細胞ということに関しては同じなのかも知れません。

こんなことを知ってからいつものように整体のことを考えていたら、整体でも同じような感覚のことがあることに気づきました。
それは強い力でグイグイ揉むような施術は結局表面にしか影響できないということです。影響できないどころか本当は強すぎる力は、毛細血管を切ってしまうのでかえって悪くなり、結局はよくならないのです。身体は皮膚だけでなく、その下には筋肉・・・それも表層、中層、深層とあります。そして靭帯も骨も内臓もあります。そういった身体の芯にまで到達できる施術は必ず「弱い力」でないといけないのです。私がやっている『中立位の整体』や『頭蓋仙骨療法』では弱いというより「触れているだけ」「触れていることすら忘れる」に近いことが必要です。

煮物に味がしみ込むことも、身体の芯が冷えてきたときに深い眠りができるのも、そして触れているだけのような弱い力が身体に深く浸透するのも、形は違っても私には全て「波長が長い」からだと思えてくるのです。

私だけの感覚なのかも知れませんが、「波長が長くなる」ということは「時間が遅くなる」ことと同じように思います。時間は同じ速度で過ぎ去っていきます。しかしそれぞれの細胞が感じる時間は、波長が長くなるに従って「遅く」なっていく・・・だからよくしみ込むし、眠りは深く、施術効果は身体の奥まで到達する・・・

『中立位の整体』で私が理想としている「ゼロに近づく」ことは、「時間を止める」ことにつながっていると思います。時間が止まると人の身体はいらないものを排除して必要なものを受け入れることできる・・・それが目指すべきニュートラルということで『自己治癒力』の発動に深く関係していると思うのです。


2014年2月2日(日) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.16 10:52
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ジャンヌ・ダルク

昔のブログです・・・


ジャンヌ・ダルクといっても15世紀フランス王国の軍人で国民的ヒロインの話ではありません。卓球界のジャンヌ・ダルクと言われているプロ卓球選手の四元奈生美さんの話です。
この人は、卓球の地味なイメージを何とか変えたいとかなりカラフルで派手なユニフォームを着て試合に臨むのです。自分のユニフォームをデザインすることもあるそうです。およそ今までの卓球選手のイメージとはかけ離れた奇抜なユニフォームの時もあります。

私は四元奈生美という卓球選手を特に好きでも嫌いでもありません。しかしこの人は今までの常識を破ったユニフォームを着て試合に出ます・・・私はそこが凄く偉いと思うのです。考えてみれば「ユニフォーム」というのはチーム全員が同じものを着るという意味が本来のものだと思います。その意味から個人戦の場合は四元さんが自由なユニフォームを着るのは問題ないと思いますが、ダブルスの場合はどうしているのでしょうか。そういう細かいことや四元さんの選手としての実力は私にはよく分かりません。
もちろん賛否両論あることでしょう。しかし、とにかくその心意気というか度胸というか、自分がいいと思ったことをやり抜く気持ちが私は大好きです。

考えてみてください。いくら自分の着たいものを着るのだと思っても、もしそんな奇抜なユニフォームを着て試合でいつも負けていたら周りからどう言われるか・・・本当はユニフォームのデザインと試合とは関係がないのにきっといいようには言われないと思います。四元さんももちろんそんなことは分かり切っているはずです。その上で自分の主張を通して堂々と試合をする・・・これはかなり凄いことだと思います。

「自分が本当にいいと思ったことはした方がいい」・・・ほとんどの人はこの考えに賛成されると思います。しかし本当にそれを『実行できる』人はどれくらいいるでしょうか。「【進化流水】知行合一」で書きましたが、知っているだけで行動を伴わないのは何の意味もない・・・いいと思っていても実行できないなら何も分かっていないのと同じ・・・誠に耳の痛いことです。

私は四元さんのユニフォームを見るといつも思います。
自分が本当にいいと思ったことを実行する・・・しかもそれを堂々とできる・・・それは『脳が喜ぶ』ことになるのではないかと。
脳は小手先のテクニックでは決して誤魔化されないように思います。他人は騙せても自分自身は騙せません。ですから「本物の気持ちを持ってそれを身体で実行する」・・・このことが脳を喜ばすように思うのです。

『脳が喜ぶ』から四元さんの「心」と「身体」はバランスがとれていると思います。それは試合の結果いかんに関らずそれができること自体が生き方として素晴らしく、見習いたいと私は思うのです。


2014年1月28日(火) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
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