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2015.12.29 16:08
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置いてきぼりの心

昔のブログです・・・


電車やバスに乗っているときなどで、子供が大きな声で泣いたりあばれたりしているのに出会う時がたまにあります。2ヶ月くらい前でしょうか、電車に乗っていた時にある駅から男の子と女の子の二人を連れたお母さんが乗ってきました。電車の中はぎゅうぎゅう詰めではないけれどそこそこ込んでいました。
すると乗って直ぐに小学校2年生くらいに見える上の子が大きな声で泣き出したのです。ちょっとぐずりながらかなり大きな声で泣くのです。周りの人はその子を見てしまいます。私もそれとはなしに見ているとどうやら椅子に座れないからぐずっているようなのです。

お母さんは「満員だから!」とか「優先座席も空いてない!」、「手すりをちゃんと持って!」、「ちょっかいを出さない!」「いらんことをしない!」・・・そしてまた「満員だから!」「理解しなさい!」「あんたは何でっ!」・・・「それなら勝手にしなさい!」とか、「ちゃんとしなさい!」とかを大きな声で矢継ぎ早に叱りの言葉を連発します。近くにいるとびっくりするくらい大きな声で叱るのです。その頃になるとその子はすでに泣き止んでじっとしていたのですがお母さんはまだ言っています・・・「じっとしなさい!」。やがて近くに座っていた一人のご婦人が見るに見かねたのか席を譲りました。そしたらそのお母さんは「ありがとうございます」と礼は言ってましたが当然のように直ぐに子供を座らせました。

しかし周りにいた人で「良かったね」と思った人はおそらく一人もいなかったと思います。心優しい席を譲られたご婦人はひょっとしたらそう思っていたかも知れませんが、ほとんどの人は「何じゃそれ!」って思ったと思います。最初の一言を聞いた時から不愉快な気持ちになりました。一応にしろ正しいことを言っていたのに何故でしょうか。

このお母さんは確かに一応正しいことは言っていたと思います。正しい指導をしている、厳しく育てている・・・一見そういう風に見えるのですが何故かそれは表面だけのように感じるのです。そうです、「心」がないように思うのです。「心」と「身体」は一体になっているはずなのですが「心」だけが置いてきぼりになっているのです。もちろんここで言う「身体」とは大きな声で叱ったりする具体的な行動のことです。
「心」が置いてきぼりになっているから正しいことを言っているのにそれが本当の愛情をもった指導に聞こえないのです。本当に愛情をもってしかも厳しく育てていたら、子供は泣かないし、泣いたとしてもあれくらいの状況であんな泣き方は絶対にしないと思います。もし少しぐずったとしても優しく諭すと子供はおとなしく我慢すると思います。それに本当に厳しく育てているなら一人で立って歩ける子供に優先座席に座らせることもしないし、あの状況で席を譲ってもらっても決して座らせないと思います。

前回の【進化流水】で「半歩前へ」ということを書きました。物事をするに当たってあれこれ考える前に「心」を「半歩前に」置くことの大切さを書きました。
「置いてきぼりの心」はそれとは正反対で、「心」が後ろに忘れ去られているのです。今回の場合は半歩どころではなく「一歩」くらい後ろに「心」は置いてきぼりにされているのです。あんな叱り方をしてそれをむしろ自慢げにしていたことを考えると「二歩」くらい後ろだったのかも知れません。

「心」と「身体」は一体のものです。ですからそのバランスがとれていることは真の健康にとって非常に重要です。心が置いてきぼりになっているということは「身体」は健康なのかも知れませんが、精神性においては極めて不健康であると思うのです。「健康さ」と「不健康さ」はやがてはどちらか強いほうに引っ張られていくと思います。何故なら「心」と「身体」は一つだからです。
あの時のあのお母さんも「心が置いてきぼり」になっていることに気づいて心身共に健康になって欲しいと願います。愛情をもって厳しくしかし静かに優しく叱っていたなら周りの人もどんなに清々しい思いをしたことでしょう。もっともそういう育て方をしていたら叱ること自体が必要なくなりますが。

電車の中などで子供がガサガサしている時、「じっとしないと前のおっちゃんに怒られるよ!」という叱り方をする人がいます。しかし周りにいる「心」ある人はみんな思っています。

「あんたが叱れよ」と。


2014年2月16日(日) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.29 16:07
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半歩前へ

昔のブログです・・・


半歩前へ!・・・学生時代、整列している時によくこういう号令を受けたことがあります。半歩くらい前に詰めろということなのですが、では何センチかという厳密な距離が決まっている訳ではありません。それに人それぞれ歩幅が違うので正確に自分の半歩だけ前に行けたとしても全員が同じ距離を詰めることにはなりません。こういった時の半歩は「おおよそ半歩くらい」という意味とともに前に詰めながら周囲と前後が合うように「整合せよ」ということですね。「半歩」についてちょっと詳しく書いてしまいましたが、今日お話しするのは実際に前に詰める「半歩」ではなく「心の半歩」の話です。

さて「心の半歩」ですが、何をするにしてもそれをする前に「心を半歩前に出す」ということが凄く重要なことだと私は思うのです。
「心」を半歩前に出すというのは、あれこれ考える前に「心」だけをまず半歩前に出す・・・周りと整合を取りながらも半歩くらい前に置く・・・「身体」はまだ動かない・・・スポーツでも仕事でも困難なことに直面した時も「心」は既に半歩だけ前に出ている状態・・・前に向かおうとしている・・・そんな感じのことです。

「心」の準備をしておくのと少し似ていますが、違うのは「考えない」というところでしょうか、考えないで無条件で前に出すということです。無条件で「心」が半歩前にあるとそれは「これから何かを始める」という段階はすでに過ぎているように感じるのです。
これから何かをするために準備をするというのではなく、「もう始まっている」という状態にある方がいらない力が入らなくて本来の自分の力が出ると思うのです。もう始まっているから「上手くいかなかったらどうしよう」とかを考えることもなくなります。前に向かっているから「上手くいくに決まっている」に近づきます。

では「半歩」でなく「一歩」や「三歩」ならもっと前向きになれるのか・・・前向きの達人なら可能かも知れませんが、私はやはり「半歩」がいいと思います。「半歩」というのは少しなのです。ほんの少しだから手の届く範囲で「心」を前に出せるし、「身体」もついて行き易いのです。一歩以上では「身体」と離れ過ぎていて「身体」が置いてきぼりになる・・・そうするとせっかく前に行っている「心」は後ろに引き戻される・・・そんな感じがするのです。ですからやはり「半歩」がいいのです。
周りと整合を取りながら「身体」がついて行き易く、且つ全てを前に向かわせる「半歩前へ」が私はいいと思うのです。

これはスポーツなど身体の運動を伴う場合だけではありません。困難なことに直面した時、嫌なことでもやらなければならない時などでも同じようにまず「心」を「半歩前に」置くのです。そうすると「身体」の動きに関係がないことでも「心」と一つになるように「身体」も前に向かう・・・実際には動かなくても身体とともに前に向かうイメージを持てると思うのです。
「心」の問題も「身体」を伴った形で行うのが大切なのです。
「心」がどんな形なのかは私も知りません。しかしその「心」のイメージとして丸く柔らかいものを両手で包み込んで実際に半歩くらい前にそっと置く感じ・・・実際に手を動かしても「心の中」だけでイメージしてもどちらでもいいのです。大切なのは形を伴ったイメージで「心」を「半歩前に」置くことなのです。

少林寺拳法の技をしようとする時も整体をしようとする時も、まず「やろうとする心だけ」を「半歩前に」置きます。やろうとする心だけ半歩前に置くというのは言い換えれば「何をやるかを決めない」ということです。「何をどうする」ということを決めてやるのは「心が半歩後ろに」あるのと同じだと思います。何をどうするか分からない・・・しかしやろうとする「心」は半歩前に置く・・・そうするといらないことを考えずに一番合理的なことができると思うのです。もちろんその時の自分の技量によって出来る範囲もレベルも違いますが、少なくとも自分の実力を出し易くなると思うのです。

何も考えずに「心」を「半歩前に」置く・・・その段階でもう始まっているのです・・・考えてもいいけれどその前にとにかく「心」を「半歩前に」置く・・・もし考えることが必要でもそれから考えるのです。そうすると「心」と「身体」は一つになってまずは前に向かいます。心と身体が前に向かっているから自分を信じることが出来るのです。
どんなことにせよ今からやることに対しては今現在の自分が持っている力が全てなのであって、それを信じた上で誰かのために持てる力を尽くせることこそ人が生きている価値だと思うのです。

半歩前へ! 無条件で今の自分を信じるために。


2014年2月14日(金) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.29 16:06
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バリコン

昔のブログです・・・


「バリコン」というものをご存知でしょうか。正式にはバリアブルコンデンサーと言って日本語では可変蓄電器と言います。昔のラジオをご存知の方はすぐに思い浮かぶと思いますが、ラジオのつまみの先に付いていて放送局の周波数に合わせて受信するためのものです。
詳しくはわかりませんが、つまみの先には向かい合った電極があって回すことでその接触面積などが変わり、それに比例して静電容量が変わることで望みの周波数に合うのです。
今はもうほとんどデジタルになってボタン一つで選局できますが、周波数のことをヘルツではなくサイクルといっていた時代の話です。

学生時代はほんとうによくラジオを聞きました。それも深夜放送です。建前では勉強をしていることになっているのですが、いや中にはちゃんと勉強しながら聞いていた人もいると思いますが、とにかくその当時の学生はほとんどの人が深夜放送を聞いていたと思います。

当たり前の話ですがラジオは放送局から流される番組を「聞く」という一方通行のものです。それはそうなのですが当時の深夜放送(ひょっとして今でもあるのかも知れませんが)では葉書で聞きたい局をリクエストしたりするのです。そうすると単にラジオから流れる音楽を「聞く」というのではなく、自分の葉書を読んでくれるのを期待したり、友達の名前がリクエストとともに言われたりするのを楽しみに聞いているのです。
そうすると「あいつ、こんな曲が好きなのか」とか自分のことは棚に上げて「きっとあいつも全然勉強せんとラジオを聞いているに違いない」とか色んなことを想像しながら「聴いている」のです。一方通行のラジオを介して、目で見えなくても気持ちが双方向に働くから面白いのです。

この感覚が私は整体でも似ているように思うのです。
バリコンでラジオの周波数を合わせる・・・それは人体がもっている根源的な3つの周波数に同期をとるべく手で感じていくことと似ているように思えてなりません。
ラジオを介して友達のことを想像しながら聴く・・・それは手を介して施術される方の「身体システム」を想像しながらその「声」を「聴く」のと同じではないでしょうか。そして残念ながらその時によって聴きにくいときやよく聴こえるときがあるのもよく似ているように思うのです。

「身体システムの声」にもデジタルで一発で周波数を合わせられたら便利ではあると思います。しかしながらもしそんなことが出来る時代になったとしても便利になる分、「想像する」ことや「感じる」という感覚は鈍ると思うのです。自分のわからないことなどこの世には無限にあります。その中でも特に人の「心」と「身体」は分かるなどと簡単に言えるものではありません。ですから施術に際してもその方の「身体システム」を感じて、さらに想像しながら『自己治癒力』を底上げできるように少し後押ししていくのです。

不調で辛い思いをしている方の原因と解決方法をデジタルで一発で見つけて回復させていく・・・遠い未来そんな時代がくるのでしょうか・・・いや、きっとこないでしょう。
人は機械ではありません。生きているのが人間です。生きているということは理論通りにはいかないことや辻褄の合わないことがあるということです。ですからそこには生きている「手」で「感じる」、「想像する」ということが絶対に必要なのです。

誰もが寝静まった静かな部屋で、息を潜めて見えない世界を想像しながら深夜放送の小さな音を聴いている・・・そんな風に施術していきたいと思うのです。


2014年2月10日(月) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.23 20:19
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夜会

昔のブログです・・・


少し前にテレビで「オール中島みゆきナイト」という秘蔵映像の番組がありました。どの曲も懐かしく良かったのですが、それ以上に中島みゆきという人は改めて凄いと思いました。
中島みゆきさんの何が凄いかと言ってそれは「感性の鋭さ」とそれを「表現する力の強さ」で、私は突出していると思います。番組でも誰かが言っていましたが、「初めて会う人の一を見れば全てが瞬時にわかってしまう感性」を持っている・・・私もそう思うのです。

2年位前に友達に誘われて『中島みゆき 夜会 2/2』というコンサートでもなく、演劇でもない・・・たしか言葉の実験劇場と言っていたと思います・・・そういうものを観る機会がありました。心象風景もたくさん出てきますので正直よくわからないところもありました。しかしその歌とともに表す『心象』が心にぐっときます。いろんな解釈ができそうな「ベトナムの心象風景」などは正確には何なのかわからないのに心が深く揺さぶられ涙が出ました。

中島みゆきさんが普通のコンサートではなく「夜会」をよく公演されるのは、歌だけでは自分の繊細なイメージを伝えるのが難しいからなのではないでしょうか。もちろん彼女は歌だけでも相当なものがあります。しかし私がここで言いたいのは、「歌という限定」を外して「夜会」というかなり自由な領域を取り込んだとき、自由度は増す代わりにその表現を含むコントロールは数段難しいように思うことです。

中島みゆきさんは「感性」の鋭さとその「表現力」の強さに加えて、人間を静かに、しかし深く見つめて「洞察する力」が人並外れていると思います。すなわち尋常でないレベルの「繊細な感覚」を持っていると思うのです。真似のしようもありませんが彼女がどうやってそういった感覚を身につけることができたのか、もちろん持って生まれたものもあると思いますがそれを磨き続けているように思います。どうやって磨くのか・・・知りたい・・・でもわからない・・・と夜会を観ながら思っているとき、ふと思ったのです・・・きっと中島みゆきさんは「心が滞っていない」のではないかと。
「心に滞りがない」ということは、怖いものなどでもそれに対抗しようとするのではなくある意味「無防備」に、普通は自然に防御してしまうことも無防備に感じるままに感じるのではないかと思いました。そして「滞っていない心」を持っているということは「信じられる自分」・・・いい所も悪い所も含めて自分を信じているということなのだと思うのです。

「心」と「身体」に不調を抱えて辛い思いをしている人に対して、その人の「身体システム」を出来る限り尊重しながら回復への道を共に歩むためには、施術者である私が不必要なことは一切しない「ゼロの世界」を目指すことが重要です。それは単に施術の技術だけでなく心に滞りがない「信じられる自分である」ということが非常に大切なのです。

そういえば3年のときの大学祭に中島みゆきさんがコンサートに来たのに、あの時仲間と生ビールとみたらし団子を売って儲けることに必死になっていたので観ませんでした。そうやって儲けた売上げもみんなで一晩飲んで騒いだら全部なくなりました。。。
若いということはきっとそんなものなのでしょう・・・でもあの時、もし彼女のコンサートを観ていたらもう少し早く大切なことに気がついたかも知れませんね。


2014年2月8日(土) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.23 20:18
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短い冬

昔のブログです・・・


日本には春夏秋冬があります。ただし今日は四季折々に趣のあるあの春夏秋冬ではなく、作家の藤本義一氏が講演で話されていた人生の「春夏秋冬」の話です。もう随分昔の話なので詳細は覚えていませんが、ある講演の中でこんなことを話されました。

毎年毎年、誕生日がくれば一つ歳をとる・・・ああ50歳になった、来年は51歳、次は52歳・・・デジタル的に確実に毎年歳を取る・・・そして1年というものは結構短く世知辛い。そこで10年という時間を一つの単位にしてそれに「春夏秋冬」を当てはめる。20代、30代、40代・・・それぞれの10年を一つの生き方の単位にしてその10年を春夏秋冬に分ける。
そうすると春・夏・秋・冬それぞれ平均して2.5年・・・ただし実際の季節と同じで長い春もあれば短い冬もある・・・おおよそ2.5年くらいとするが場合によれば3年以上の「春」も有りで考える。
そして、
「春」には何かを始める。
「夏」にはそれをブレーキをかけずに思い切りやる。
「秋」にはやってきたことの収穫をする。
「冬」には春夏秋の経験から来るべき次の10年に向けた準備をする・・・1年という短い時間でなく2~3年くらいの期間で考えた方が何かを成し遂げるのに適しているし、50代なら50代という大きな時間の中でやっていくことの印象は深くなるというのです。
講演ではさらに20代、30代・・・とそれぞれに生き方の「名前」をつけられていましたが詳細は忘れました。しかしおおよそこんな意味のことを話されたと思います。

それで自分のことで考えてみます。30代の春に新しい会社設立に参加したことと少林寺拳法をやり始めたこと以外はただもう仕事に、遊びに、子育てに、少林寺拳法に、釣りにとそれぞれにのめり込んでいただけのように思いますので、ちょっとワープして50代・・・プロフィールでも述べていますが、50代の春は胃がんが発覚し大変な幕開けでしたが早期故に無事手術も終え完治しました。しかしその経験から生き方を変えたくなって整体を始めました。ちょっと長い春でしたがやがて夏になって「思い切りやろう」と思い整体の事業届けを出して自宅の一室を施術用に改造しました。無我夢中でやっていた夏は2.5年どころではなく結構長かったです。そして収穫の秋・・・何をもって収穫というのかは難しいのですが自分のやってきた整体と少林寺拳法から体得した『中立位の整体』などの施術に確固たる自信が持てた秋でした。

そして冬です。実のところ何とか春・夏・秋と当てはめることが出来たのですが、さて「冬」の準備っていうのが全然実感がありませんでした。「春夏秋冬」という生き方をしようなどと考えていたのに「冬」の準備が何に当たるのか、何をすればいいのか・・・そういったことでつい2ヶ月前まではちょっと悩んでいたのです。

もう「冬」は無くてもいいかなどと自分に都合のいい開き直りをしかけていたのですが、救いの神はあるものです。あるきっかけから知り合った凄腕整体師の方に「ホームページ」作成の支援をしてもらえることになったのです。もちろん世の中のホームページなるものがどんなものかは知っていました。しかし自分の整体のホームページを出すということなど現実的には全く考えてもいなかったのです。でも昨年12月の出会いから急速に作ってみようと思いました。そして今になってみればそれが私の50代の「冬」の準備だったのです。
誠実に一生懸命やっていれば必ずいいことがあるのだと思いました。

ただ、いくら短い冬も有りと言ってもこの「冬」はたったの2ヶ月しかありませんでしたが。。。
来るべき私の60代・・・今までで一番輝く10年間にするつもりです。


2014年2月4日(火) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.23 20:16
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美味しい煮物の作り方

昔のブログです・・・


煮物は冷えていくときに味がつく・・・そんなことを最近知りました。そのメカニズムはよく分かりませんが、食物の細胞の性質と温度変化が関係しているのでしょう。なるほど考えてみれば昨日作ったカレーが今日の方が美味しく感じる時ってありますよね。

人の眠りに関しても似たようなことがあります。ゆっくりお風呂に入って身体の芯まで温まると気持ちいいものです。特に寒い晩などは風呂から上がってホコホコのまま蒲団にもぐって寝たらさぞよく眠れるだろうと思ってしまいます。でも実際は深い眠りはそれでは得られないようです。

深い眠りにするためには、お風呂で温まった身体の「芯が冷えてきたとき」に寝るのが一番いいそうです。身体の表面ではなく「身体の芯」が冷えるには2~3時間かかるようです。
そしたら夜の12時に寝るのならお風呂は9時頃に入るのがいいということになります。医学的なことはさておいて、ここで「冷えてきたとき」というのが「煮物は冷えていくときに味が付く」のと私は生き物としての性質が似ているように思えてなりません。

普通の感覚では熱い風呂に入って直ぐに寝た方がよく眠れるように思ってしまいます。同じように煮物もぐつぐつと煮たっているときに味がよくしみ込んでいるように思ってしまいます。でもそうではなく実はその反対に冷えていく過程がいいというのです。
食物も人間の身体も細胞ということに関しては同じなのかも知れません。

こんなことを知ってからいつものように整体のことを考えていたら、整体でも同じような感覚のことがあることに気づきました。
それは強い力でグイグイ揉むような施術は結局表面にしか影響できないということです。影響できないどころか本当は強すぎる力は、毛細血管を切ってしまうのでかえって悪くなり、結局はよくならないのです。身体は皮膚だけでなく、その下には筋肉・・・それも表層、中層、深層とあります。そして靭帯も骨も内臓もあります。そういった身体の芯にまで到達できる施術は必ず「弱い力」でないといけないのです。私がやっている『中立位の整体』や『頭蓋仙骨療法』では弱いというより「触れているだけ」「触れていることすら忘れる」に近いことが必要です。

煮物に味がしみ込むことも、身体の芯が冷えてきたときに深い眠りができるのも、そして触れているだけのような弱い力が身体に深く浸透するのも、形は違っても私には全て「波長が長い」からだと思えてくるのです。

私だけの感覚なのかも知れませんが、「波長が長くなる」ということは「時間が遅くなる」ことと同じように思います。時間は同じ速度で過ぎ去っていきます。しかしそれぞれの細胞が感じる時間は、波長が長くなるに従って「遅く」なっていく・・・だからよくしみ込むし、眠りは深く、施術効果は身体の奥まで到達する・・・

『中立位の整体』で私が理想としている「ゼロに近づく」ことは、「時間を止める」ことにつながっていると思います。時間が止まると人の身体はいらないものを排除して必要なものを受け入れることできる・・・それが目指すべきニュートラルということで『自己治癒力』の発動に深く関係していると思うのです。


2014年2月2日(日) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.16 10:52
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ジャンヌ・ダルク

昔のブログです・・・


ジャンヌ・ダルクといっても15世紀フランス王国の軍人で国民的ヒロインの話ではありません。卓球界のジャンヌ・ダルクと言われているプロ卓球選手の四元奈生美さんの話です。
この人は、卓球の地味なイメージを何とか変えたいとかなりカラフルで派手なユニフォームを着て試合に臨むのです。自分のユニフォームをデザインすることもあるそうです。およそ今までの卓球選手のイメージとはかけ離れた奇抜なユニフォームの時もあります。

私は四元奈生美という卓球選手を特に好きでも嫌いでもありません。しかしこの人は今までの常識を破ったユニフォームを着て試合に出ます・・・私はそこが凄く偉いと思うのです。考えてみれば「ユニフォーム」というのはチーム全員が同じものを着るという意味が本来のものだと思います。その意味から個人戦の場合は四元さんが自由なユニフォームを着るのは問題ないと思いますが、ダブルスの場合はどうしているのでしょうか。そういう細かいことや四元さんの選手としての実力は私にはよく分かりません。
もちろん賛否両論あることでしょう。しかし、とにかくその心意気というか度胸というか、自分がいいと思ったことをやり抜く気持ちが私は大好きです。

考えてみてください。いくら自分の着たいものを着るのだと思っても、もしそんな奇抜なユニフォームを着て試合でいつも負けていたら周りからどう言われるか・・・本当はユニフォームのデザインと試合とは関係がないのにきっといいようには言われないと思います。四元さんももちろんそんなことは分かり切っているはずです。その上で自分の主張を通して堂々と試合をする・・・これはかなり凄いことだと思います。

「自分が本当にいいと思ったことはした方がいい」・・・ほとんどの人はこの考えに賛成されると思います。しかし本当にそれを『実行できる』人はどれくらいいるでしょうか。「【進化流水】知行合一」で書きましたが、知っているだけで行動を伴わないのは何の意味もない・・・いいと思っていても実行できないなら何も分かっていないのと同じ・・・誠に耳の痛いことです。

私は四元さんのユニフォームを見るといつも思います。
自分が本当にいいと思ったことを実行する・・・しかもそれを堂々とできる・・・それは『脳が喜ぶ』ことになるのではないかと。
脳は小手先のテクニックでは決して誤魔化されないように思います。他人は騙せても自分自身は騙せません。ですから「本物の気持ちを持ってそれを身体で実行する」・・・このことが脳を喜ばすように思うのです。

『脳が喜ぶ』から四元さんの「心」と「身体」はバランスがとれていると思います。それは試合の結果いかんに関らずそれができること自体が生き方として素晴らしく、見習いたいと私は思うのです。


2014年1月28日(火) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.16 10:51
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自分を信じぬく力

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少し前、テレビ番組のプロフェッショナル仕事の流儀で「最強の棋士 井山裕太」という 囲碁棋士の話がありました。ご覧になった方も多いと思います。
若干24歳で囲碁6冠を制覇するという日本を代表する凄腕の棋士なのですが、その風貌や顔つきは凄く優しいのです。但し勝負をしているときの目は未来を見通すような鋭さを感じました。

番組では子供の頃から囲碁の才能があったこと、確か12歳でプロ棋士になって同年代では敵がいなかったこと・・・しかし中国のライバルには勝てなかったことなどを紹介していきます。でも私が印象に残ったのは次の言葉です。

『負けたことよりも最後に自分を信じ切ることができなかった悔しさ』
これは凄い言葉です。「自分を信じ切る」こと・・・それは私が整体でも少林寺拳法でも目指している「絶対に出来る」「出来ないと全く思っていない」という境地につながるものと思います。
「自分を信じ切る」ということは信じようとするのではありません。信じられる自分がいるということです。そして「信じられる自分」になるためには信じるに値する成功実績がいります。

私は少林寺拳法で指導するとき、よく「上手くいったときの感じを身体にすり込め」と言います。そして「上手くいかなかったときは全て忘れろ」とも言います。
「身体にすり込む」ということは本当に難しいのですが、可能な限り身体を一つに使うこと、例題の練習ではない実戦では全てが理想的にはいかない、だから身体の全体と身体の全ての部分が互いに一つのことに向かって協力する・・・そんな身体感覚を持てるようにすることが必要だと私は思っています。ですから「上手くいったときの感じ」を大切にして「身体全てにすり込む」ことが重要なのです。そしてそのことが「信じられる自分」を作っていくことにつながると思うのです。
少林寺拳法自体が「自分を頼りに生きていける」ようにすることを修行の主な目的にしているのです。自分を頼りに出来ない人は本当の意味では他人(ヒト)には手を差し伸べられないのです。

そしてそのことは整体ではさらに重要な気がします。
「心」と「身体」の不調に辛い思いをしてマイナスの世界にいる人をプラスの世界まで誘導する・・・いや誘導というより共に歩む。
その工程を考えたとき、自分で自分を信じられないなら共に歩むことなんて出来ないと思うのです。例え技術が今の2倍上手くなったとしても「自分を信じていない」ならそれは「心」がないのと同じように思います。整体に関する知識も技術も常に向上していかないといけません。しかしその途上であってもその時々のレベルで「自分を信じている」ことが大変重要だと思うのです。

その囲碁棋士は最後にこう言います。
『目指すのはどんな状況でも自分を信じぬく揺るぎない境地』・・・24歳でこの言葉・・・世の中には凄い人がいるものです。


2014年1月24日(金) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.16 10:49
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何も期待しない

昔のブログです・・・


ちょっと前にテレビであるピアニストの映画を放送していました。題名も俳優も忘れましたが、その映画ではある天才的な才能をもった人がクラシックピアノの指導を受けている時に先生から言われるとても印象に残った言葉があります。
それはもの凄く難しい楽曲なのですが、「手が自動的に動くくらい譜面を完全に覚えること」、そしてその後、「その譜面を完全に忘れること」を要求されるのです。正確なセリフは忘れましたがとにかくそのような意味のことを指導されます。
その結果どうなるか・・・それはその段階までいって初めて演奏に「自分の表現が出せる」と言うのです。
手が自動的に動くように完全に譜面を覚え込むだけでも常人では出来ません。その上、それをまた完全に忘れる・・・いったいどうやってできるのでしょうか。

でも私は少林寺拳法の技で同じようなことを思ったことがあります。
例えば手首を握られたときにそれを逆に投げる技があるとします。それを練習するのですが最初は一生懸命に手順を覚えようとします。今から思えば大して意味がないようなこと・・・この時右足を少し前に出す・・・というようなことまでとにかく手順を覚えようとします。しかし、手順をいくら正確に覚えても練習させるつもりで相手をしてくれている人なら掛かるときもありますが、そうでない人につかまれた時はまず絶対といっていいほど掛かりません。
それでさらに練習をするのですが、やっているうちにいらない力が抜けたり、身体を一つに使うコツをつかんだりして技の本質に少し迫ってきます。要するに最初に教えてもらうのは「方程式を解く公式」なのです。その公式を覚えると、やがて方程式を解くことはできますがそれは例題だけです。実戦は例題ではありません。ですからこの段階ではまだ自由に技を掛けられないのです。

この段階になってくると、もう手順とかは完全に身体が覚えています。
さて、問題はここからです。徐々に合理的に身体を使うことが分かってきて、手順を気にしないで、それよりも重心の移動や足の裏の感覚、膝の柔らかさなどを感じながら身体全体で協力して技を掛けるようになります。ここまでいけばかなりいいのですが、実はここからがさらに難しいのです。拳法のことはすこし端折りますが、最終的には「技を掛けた時に絶対掛かると思っていること」、さらに「技が掛からないという感じを全くもっていないこと」・・・そしてついには「技を掛けようとも思っていない」状態になれたとき、相当なレベルで技は掛けられるのです。

このことが「手が自動的に演奏できるくらい譜面を完全に覚えた後、譜面を完全に忘れる。そうすると自分の本当の表現ができる。」ということにつながるように私は思いました。

そして整体の施術においても多分同じことが言えると思えて仕方がありません。
何とか良くなって欲しいと思うのは当たり前なのですが、基本的には「自己治癒力」の力で回復していく訳で、施術を受ける方の力で良くなるということ・・・そうするとその方の「身体システム」にどれだけ任せられるかということになる・・・そう考えると施術の技術はもちろん必要ではあるけれども私が「治そう」とか「治したい」とかも考えない・・・『何も期待しない、何も考えない』中で施術するのが一番いいように思うのです。

手は感じたものに自動的に対応する・・・しかし何も期待しない・・・その中で必要と感じたことをする・・・簡単に書きましたが真にこれが出来るのは本当に難しいのです。
しかし難しいからそれを目指す価値があるのです。そのためには基礎的な技術レベルはもちろん上げていかないといけませんが、自分自身の「心」がゆったりとしていることが必須条件です。

音楽も少林寺拳法も整体も表現が違うだけで、人知を越えたレベルへの道は同じように思います。今からピアニストにはなれないのは確実ですが、施術そのものが自分の表現としての音楽を奏でるようになれたなら最高ですね。


2014年1月22日(水) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.10 12:19
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筋金入りの侍逝く

昔のブログです・・・


フィリピン西部のルバング島で終戦を信じず、約30年間戦い続けた小野田寛郎さんが16日に逝去されました。74年に帰国後ブラジルで牧場を開設、84年にはジャングル生活で得た技術を子供たちに伝える「小野田自然塾」も主催されていました。本当にお疲れ様でした。小野田さんの訃報を聞いて直ぐに思いを巡らせたのは「陸軍中野学校」のことです。小野田さんは陸軍中野学校を卒業した情報将校だったのです。

かなり昔になりますが「陸軍中野学校」という映画がありました。情報戦に対応できる人材を育成するために超優秀な者が集められたということです。いわゆるスパイの養成学校ですね。プロフェールでちょっと書いているように私が小さい時に007に憧れたのとは違って、中野学校のは本物です。

詳細は忘れましたがその映画で印象的なシーンがありました。それは市川雷蔵が主役で口頭試験のような場面でした。
2階か3階か、とにかく木の階段を上がったところに部屋があって教官が机の前に座っています。市川雷蔵は階段を上がって机の前に行きます。「ただ今、まいりました」というようなことを言ったと思います。そのすぐ後に教官は机の上を大きな地図のようなもので覆ってしまいます。そして矢継早に質問をするのです。
「今、登ってきた階段は何段あったか?」、「○○段です。」
「机の上に何があったか?」、「タバコ、万年筆、マッチ・・・」
「マッチ箱からマッチは何本出ていたか?」、「○○本です。」・・・
というような質問が続くのです。そして間髪入れずにことごとく正解を答えるのです。

超優秀というのは身体の優秀さだけではないのです。学問的な頭の優秀さももちろん必要ですがそれだけではなく、集中力、注意力、臨機応変の柔軟性、正確な判断力、未来を描く洞察力・・・そういったもの全てを兼ね備えている者だけが入学を許されるのです。そしてさらにそこから知識と能力をどんどん磨いていくのです。

私はまだ若い時にテレビでこの映画を観たのですがこのシーンが凄いと思いました。『能力』というのはこういうものなのか、こんなに凄い奴がいるのかと強烈に思いました。
同時にそんな人が「筋金入り」というのだと思いました。そして小野田寛郎さんは本物の「筋金入り」です。

時代背景も人間としての性格も、能力も全く違います。ですから私はいくら望んでも小野田さんレベルの筋金入りにはなれそうもありません。でも憧れます。『筋金入り』という言葉の響きにも痺れます。そこから私が連想するのは「強靭」「精神」「忍耐」「鋭敏」「柔軟」「根性」「謙虚」「繊細」「大胆」「静寂」「優しさ」「寡黙」。

当たり前ですが小野田さんには足元にも及びません。でも一歩でも近づきたいと思っています。もちろんスパイの世界ではありません。私が目指したいのは整体の世界です。「心」と「身体」のバランスの世界です。
さて私は死ぬまでに先ほど挙げた12個の連想のうち、いくつを実現できるでしょうか・・・
今日は小野田寛郎という筋金入りの侍を偲んで書きました。


2014年1月20日(月) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.10 12:18
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センサー小僧

昔のブログです・・・


前回駅まで歩いたときの話を書きましたが、書いているうちに駅に関してまた一つ思い出したことがあります。それは駅にあるエスカレーターの話です。

ある日帰宅するために地下鉄に乗っていて、自分が降りる駅で電車を降りました。いつもは降りる場所などはあまり気にしないのに、そのときは6両目の一番左のドアから降りました。そこから降りると目の前にエスカレーターがあるのです。
ご存知と思いますが、エスカレーターはある程度人が乗っていない時間が経過すると止まっています。そしてエスカレーターに乗る人が「センサー」を通過したら自動で動き出します。そのときのエスカレーターは止まっていました。出口はエスカレーターのすぐ前です。しかも私が一番先に降りれそうです。そうすると私が「センサー」を通過してエスカレーターを動かせる・・・実にしょーむないことですがちょっと楽しみにしていました。

予定通りの場所で電車は止まります・・・ドアが開きます・・・一番で降ります・・・
エスカレーターには私が一番で乗れそうです・・・
その時です。全く気がつかなかったのですがエスカレーターの乗り口の向こうに小学生の男の子がいて、正に私が通過しようとする前に飛び出してきてサッと「センサー」を手で横切って、瞬く間に元の位置に引っこんでしまったのです。もちろんエスカレーターはすぐに動き出しました。

「何をするんや、このくそガキは!」・・・いや失礼、「何をするんや、この子は!」と心の中で思いましたがもうどうしようもありません。どうしようもないも何も、もともと何の意味もないこと・・・でもちょっと楽しみにしてたのにと。。。

それでエスカレーターで上まで上がってから、みんなが降りるまで待って下を見ました。そしたらその子はまだ下にいて、次に動かす機会を待っているようなのです。
「ははあ、この子はセンサー小僧やな」と思いました。「センサー小僧」には勝てるはずはありません。

人は楽しみなことがあったら「心」が明るくなります。めちゃくちゃ小さくて他愛ないことですがエスカレーターを動かすのは楽しみではありました。ですから電車から降りるときや、エスカレーターに乗ろうとするときまでは「身体」が少し軽かったのです。
でも「センサー小僧」にまんまとしてやられて少しがっかりしてエスカレーターを降りたとき、「身体」が少し重くなったように感じたのです。

私は思いました。こんな小さなことで、こんなにもしょーむないことでも「身体」は「心」の影響を受けるのかと。確かに「心」と「身体」は連動している、しかもかなり繊細に。
ですから人に対して「ちょっとくらい嫌なことは気にしない」とか、「それくらいのことは我慢して」とかを気軽に言ってしまわないように気をつけようと思いました。

「センサー小僧」はきっと、身も心も軽いんでしょうね。


2014年1月18日(土) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.10 12:16
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ステロイドおばさん

昔のブログです・・・


もうずいぶん前になりますが、地下鉄に乗るために一人で駅へと歩いていました。駅までは真っ直ぐな道で歩道も幅広くありますので歩きやすいのです。結構早足の私は特に何も考えずに歩いていました。駅まであと500メートル。
何気なく前をみていたら一人のおばさん(と言っても私より年下かも・・・)がだいぶ前を駅に向かって歩いています。割とスタスタと歩いているように思いましたが、私との距離が少しずつですが一定の割合で確実に縮まっているんで私よりは遅い歩みです。
あと20メートルで追いつきます・・・あと10メートル・・・あと5メートル・・・あと1メートル・・・
私は当然追いついてそのまま追い越していくことを疑っていませんでした。

しかし、あと1メートルくらいと認識したくらいから先ほどのペースで縮まってこないのです。それでも少しずつは縮まって、あと50センチ・・・あと30センチ・・・あと10センチ・・・そしてついに並んだと思ってそのままのペースで歩いたのですが、何と並んだまま抜けないのです。

何故なのかは分かりませんが並走しているような形で、おばさんはペースを上げて私の右側を歩いているのです。私はずっと同じペースなのでおばさんには結構しんどいはずなのにずっと並んでいるのです。ちょっと気になっておばさんを見ました。そしたら明らかに私が見たことを意識していながら真っ直ぐ前をむいて歩いています。「うんうん」とは言ってませんがうんうん言って歩いているようです。
私は迷いました。何もそのおばさんを抜かないといけないことなどありません。さらにペースを上げたら簡単に抜けると思います。またペースを下げたらおばさんは前に行ってしまうでしょう。
どうしようか・・・結局同じペースで歩きました。何故ならペースを上げてもついてくるなら何だか気の毒に思うし、ペースを下げてそれに合わされたらちょっと気持ち悪いし。。。

結局、駅に着いてしまって駅へは左に曲がることから、インコーナーの有利さで私が一歩リード。そしたらそのままずるずると差が開いて階段を降りきったころにはずいぶん距離が開いてしまいました。そのときは負けず嫌いな元気なおばさんやなと思っただけでしたが、電車に乗って整体のことを考えているうちにこんなことを思いました。

人はストレスを受けたら副腎皮質ホルモンで修復しようとします。自前のステロイドですね。早いペースで歩いていた私が「ストレス」であのおばさんは「自前のステロイド」としたらどうなるかと。
ストレスが目一杯せまってきたから、ステロイドが頑張って修復する・・・追いついた私を抜かさせないように「ステロイドおばさん」は頑張っていたのではないかと。
そういうことを思っていたら「うんうん」言ってるようでしんどかったやろうなとずいぶん悪いことをしたと思いました。「悪い」のは当然ですね。あの場合の私は「ストレス」なんですから。。。

ずっと頑張ってくれていた「ステロイドおばさん」を振り切って、インコーナーを利用して引き離してしまった「ストレス」・・・きっと人間の身体も何とかぎりぎり修復しようと頑張っていくけれども、ちょっとしたことでストレスが有利に働いてしまったとき、もう追いつかなくなってしまってやがて「心」と「身体」のバランスが崩れて不調が出てきたりする・・・実に他愛のない小さな出来事でしたがそんな風なことを思いました。

もし今度あの時の「ステロイドおばさん」に出会うことがあったら、必ずペースを緩めて決して追い越さないでおこうと思いました。


2014年1月16日(木) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.02 08:38
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ベアリングの宿命

昔のブログです・・・


自転車、ミシン、洗濯機、エアコン、掃除機・・・それらの機械には性能のいいベアリングが使われています。仕組みとして回転するものにはほとんどベアリングが組み込まれていると思います。釣りのリールなどはベアリングの数で値段も違うようです。
性能のいいベアリングは実に滑らかに回転します。ですから回転に対しては滑らかで静かで摩擦抵抗の少ないベアリングがいいのです。

しかしこんな話があるのをご存じでしょうか。
西部劇に出てくるような馬車がありますよね。その馬車には大きな車輪がついています。そして道も今のようにきれいに舗装された道ではなく、石ころがいっぱいあるようなガタガタの道です。タイヤもベアリングもまだ存在しません。ですから車輪は木でできていて周りには鉄の輪で補強されています。軸のところも鉄の軸受けに鉄の軸がはまっています。するとその馬車に乗って走ると、ガタガタガタガタと細かく振動しながら進みますよね。

もしこの車輪の軸受けと軸の部分を性能のいいベアリングに替えたらどうなるでしょうか。さぞ滑らかに走って快適になる・・・と思いませんか?
でも実際はそうはならないのです。性能のいいベアリングは精密機械です。精密機械というのは部品それぞれが精密に組み合わさって性能を出します。ですからガタガタ道で、木と鉄の輪でできた車輪に軸受けだけベアリングを使ったりしたら、軸受け部分の精密さが「ガタガタさ」を全てひらってしまいます。その結果、ガタガタの軸受けの時よりももっと乗り心地は悪くなるというのです。隙間がいっぱいある鉄の軸受けに鉄の軸・・・それがガタガタさを上手く吸収してくれていたのです。


私はこの話を聞いたとき、なるほどと思いました。ベアリングに限らずおよそ精密機械というものは全ての部品が精密に機能しないと本来の性能は出ないのです。
全ての部品が精密に動けばいいのですが、場合によれば一つの小さな部品が動かなかったら機械全てが動かなくなることもあるのです。精密であるが故の宿命なのでしょう。この話を聞いたときは学生時代だったので機械というものの話として聞いていました。しかし今、整体をするようになってこんな風にも考えるようになりました。

人間の身体は信じられないくらい精密です。でもその精密さは精密機械のようなものではないと思うのです。もしも人間の身体が精密機械のような仕組みだったら、足首をちょっと痛めただけでもう歩けないし、足首を完全に治さない限りそれはちゃんと動くことはできないのではないでしょうか。

しかし人間の身体はそんな「ヤワ」ではありません。痛めた足首を膝や股関節や反対の脚など身体の一員がカバーします。可能な範囲ではありますが動きながら、また動くことによって回復していきます。精密であるだけでなくもの凄く柔軟なのです。しかも全体で自然に回復していく機能も組み込まれているのです。この精密さの次元は機械の精密さとはまるで違うのです。

そしてもう一つ・・・人間が機械と決定的に違うもの・・・それは「心」があることです。「心」があるから「身体」は安心できるのです。そして「身体」が安心できるから「心」は嬉しいのです。この二つのバランスがとれているから舗装された道では思い切りスピードを上げられるし、ガタガタ道でも快適に走れるのです。

「心」と「身体」・・・人知を越えたこの素晴らしい仕組み・・・どんな精密機械も絶対に及ばない仕組み・・・今日、回転椅子に座ってクルッと廻った時こんなことを思いました。


2014年1月14日(火) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.02 08:37
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美しい静止

昔のブログです・・・


正月気分もだいぶ抜けてきました。抜けてきてから言うのも何ですが、子供の頃の正月の遊びは「凧揚げ」「羽根つき」「スゴロク」「福笑い」、毎年お宮さんで買う「吹き矢」、それに「独楽廻し」・・・
若い方には「何それ?」と言われるようなものもあるかも知れませんが、正月と言えばやっぱり「凧揚げ」が一番正月らしい感じがします。但し、今日は「独楽廻し」の話です。独楽廻しは正月だけでなく年中やっていたからです。

昔の男の子はみんな独楽をいくつも持っていました。しかもその独楽はそれぞれ自分で調整するのです。調整の中心はやはり「芯」を真っ直ぐにしていくことと、芯の先端を細くして摩擦を少なくすることです。芯の先端はコンクリートの地面などで円を描くように砥いでいきます。先端は細いほど廻したときの摩擦は少なくなっていいのですが、一度細くし過ぎた友達がいて、その時の先はもう釘のようにまでしてしまって廻して乗せた掌に穴があいて怪我をしたことがありました。何事も程々が大切ですね。

それで本筋の「芯」を真っ直ぐにする調整ですがこれはとても難しいのです。押さえたり少し叩いたりするのですが、下手に叩き過ぎると二度と真っ直ぐにはできません。ですから慎重に何度も確認しながら少しずつ調整していくのです。そうして調整した独楽をいくつも持っていて友達と勝負するときに状態のいいのを選んで遊ぶのです。

独楽で大切なのは「芯」ですが、それを覆っている「本体」ももちろん大切です。木で出来ている「本体」は焼くのです。焼くといってももちろん完全に焼くのではなく、焦げる手前くらいまで焚火の中に入れて焼くのです。そうすると木のいらない水分がとれて軽くなってよく廻るのです。今は「焚火」なんかを勝手にやることはできないように思いますが、当時はいつもやっていましたので「焼き独楽」もやり易かったのです。もっとも焚火から出すタイミングを間違うとせっかくの独楽は炭になってしまいますが。。。

とにかくそうやって苦労して上手く調整した独楽は本当によく廻るのです。その廻っている姿は完全に「静止」しているように微動だにしません。実に美しいのです。こんなに高速で激しく廻っているのに静止しているように見える独楽を私は好きでした。

私がやっている「頭蓋仙骨療法」では「静止点誘導」といって脳脊髄液の産生・循環によって生まれる潮の満ち引きのようなリズムを非常にソフトに「静止」へと誘導し、その後の自発的な再始動でリズムが強くなるようにしていく施術があります。
人間の身体はじっとしている時、見た目では静止しているように見えますが実際は常に動いています。まず呼吸があります。整体の世界では鼻からする呼吸は二次呼吸と言われていますが、普通に呼吸していると当然胸などは動きます。でもちょっと頑張って呼吸を止めたらこの動きは抑えることができますので今度こそ静止しているように見えますね。
でも本当は脳脊髄液の産生・循環がある限り目では見えないけれどもかすかなリズムで身体は動いているのです。このリズムは一次呼吸と言われていて肺呼吸をするずっと前から死ぬまで続くものなのです。

静止点誘導が上手くできたとき、このリズムがちょっとの時間ですが止まります。もちろんそのときも人間は生きています。数秒~長くても1分くらいのうちに自然にリズムは復活しますが、私はその静止点誘導ができたとき、よく廻る独楽の「静止」を思い浮かべます。生きているのに静止している・・・廻っているのに静止している・・・それは何か「静止している」ということだけでなく、「秩序が保たれている」ような感じを受けるのです。

よく廻る独楽は他の独楽にちょっと当たってもびくともしません。また当たった衝撃が大きいときでもちょっと揺れてもすぐに真っ直ぐに持ち直します。それは独楽の「芯」と「本体」のバランスが取れているからだと思います。秩序が保たれているから復元力も強いのだと思います。

独楽の「芯」と「本体」・・・それは人の「心」と「身体」と同じだと私は思うのです。独楽の『復元力』は人間の『自己治癒力』に相当するのではないでしょうか。
「心」と「身体」のバランスが取れていると「健康」という秩序を保つことができます・・・それはよく廻る独楽のように美しいのです。


2014年1月12日(日) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
2015.12.02 08:35
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涙もろいは恥ずかしい?

昔のブログです・・・


映画を観ていても本を読んでいても、人の話を聞いていても自分が話をしていても、人に係わるちょっと感動的なことに触れただけで身体がジーンとなって直ぐに涙がでそうになります。ここ2~3年くらい前からでしょうか、どうもかなり涙もろくなってしまったようです。そんな感じになるとそのことで自分に余計に感動してしまって胸が詰まって上手く話せないようになることすらあるのです。そんな時、「何か男らしくないなあ」「恥ずかしいなあ」と思えてちょっと嫌なのですが仕方ありません。

人生経験を積んでいくと色んなことに出会うことから「人の気持ち」がよく分かるようになる、だから年をとったら涙もろくなるという話を聞いたことがあります。
まだそんなに年をとったとは思っていませんが、同年代の人はみんなそうなのでしょうか。今度同窓会があったら聞いてみようと思います。
しかし、少し恥ずかしい気持ちにはなっても「素直に感動できる」ことはいいことだと思うのです。それが「人の気持ちが分かる」ということにもつながっているなら、なおいいことに思えます。

整体の施術でも少林寺拳法の技でも、「ゼロ」に近い変化を感じ取れるように感度を上げていきたい私としては、涙もろくなるのも「ゼロ」に向かう一つの道筋だと喜ぶべきなのかも知れません。「感動」は「心」がバイブレートすることです。バイブレートした「心」はゆるんでいくように感じます。

「身体」も力を抜いてユラユラと揺すっているとだんだんゆるんできます。そういった体操を推奨している運動科学者がいるくらいです。「身体」がゆるんでくると「心」もゆるんで楽になっていくと思います。「身体」を揺らすということは少なくとも自分の意思ですることはできます。上手く力が抜けるとか、続けることができるかということはありますがとにかく揺らそうと思えば揺らすことができます。

でも考えてみてください、自分の意思で「心」を揺らすことができるでしょうか。どこかに力を入れて頑張ってみてもそれはできません。「心」と「身体」は一つでありながら構造や領域が違うのでしょう。自分の「心」がしんどくなってきたときに自分でちょっと揺らして元気にする・・・もしもそんなことが出来たらいいでしょうね。自分で自分を励ますことが出来るということですから。

しかし残念ながら「心」はなかなか思うようになってくれません。
だから「感動」ということを人間は感じることができるようになっているのではないでしょうか。
年をとっていくとストレスも積み重なり、複雑に絡み合ってくる・・・しかも身体は硬くなるし若い時のようには動かない・・・だから年をとってくると「感動」に関する感度が上がって「心」を揺さぶって楽にしてくれる・・・で、涙もろくなる。

きっと若いときも年をとっても人間は本来「心」と「身体」のバランスはとれるようにできているのだと思います。そういった仕組みを含めて『自己治癒力』というのではないでしょうか。

自律神経のバランスが崩れて「心」も「身体」も辛くなって発症してしまう自律神経失調症からなかなか抜け出せないときは『自己治癒力』を底上げしていく整体が有効です。
でも普段から自分で出来る事として、たまたま聞いたいい話、人から受けた優しさ、辛い時に手を差し伸べてくれた人の気持ち、偶然出会った思い遣り・・・どんな小さなことでもどうぞ遠慮なく感動して下さい。ちょっとくらい恥ずかしくても目一杯感動しましょう。感動した分、必ず「心」は優しく励まされているのです。

涙もろい自分・・・万歳!


2014年1月10日(金) 進化流水…流れる水は滞らず、健康への進化を共に歩む
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